廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学演習VI 1月26日 他者たちとの共存

『知覚の哲学』第五章「外部から見た人間」においてメルロ=ポンティは、彼の知覚の哲学の立場から、他者がどのように現れてくるか、そして「人類」という他者との「共存」ないしは「共存在(Mit-Sein)」がどのように可能かを模索している。
講演の前半で彼はまず、自己と他者がデカルト的な純粋精神同志の関係ではないことを示すことから始める。他の人間は純粋な精神ではなく、「他人の眼差し、所作、発話──一言で言えば、他人の身体を通じてのみ」(p. 298、傍点筆者)知られるのである。ただしこの他者の表れは、記号や標識のようにして、他者の存在を意味しているわけではない。それはあくまで「他者のシルエット、声の調子やアクセント」として、「ほんの一瞬」(p. 299)のうちに読み取られるようなものなのである。
このことは、メルロ=ポンティにとって重要なのが、他者とのいわゆる対面的なコミュニケーションではなく、身体の厚みを通した、いわば「斜めの」関係であることを示している。いやそれは「斜め」であるからこそ、他者そのものの自己への現れを示してくれる。
さらに言うならば、あらかじめある自己に他者が現れるのではない。自己と他者はいわば同時に生まれるのであり、両者はつねに絡み合っている。

そもそも私たちは(中略)他者の経験のうちに生きているのです。他者とのふれあいをした後でしか、私たちは実存の関係をけっして持ちませんし、私たちの反省はつねに私たち自身への帰還なのであり、したがって、この反省がそもそも他者との交際に多くを負っています(p. 303)。

要するに、私たちはまず「情動的意味」として他者を見ることを学ぶことによって、自己を見ることを学ぶのであり、両者は同時に生起するのである。
このことはメルロ=ポンティにとって「人類が原理的に不安定なもの」(p. 304)であることを示唆している。自己の決意や自由には、すでに他者が含まれており、それは私たちの「内面」生活でもそうなのである。このことはたとえ言語が介入しても同じことである。たんなる記号やメッセージとしての言語は、他者としての他者を与えてはくれない。合意は「私たちの背後にはない」のである。それはむしろつねに私たちの「前方」にあるとともに、けっして完成することもない。またそれが成功するかもわからない。にもかかわらず、他者がつねに自己の「内面」へと入り込み、自己が他者たちの世界に投げ込まれている限り、私たちは合意を「放棄することもできない」(p. 305)のである。
興味深いことにメルロ=ポンティはこの講義で、この状況について、「不安」と「勇気」がひとつのものであるという。合意の要求とその不可能性の彼方において、すなわちつねに危険を冒しながら、私たちは他者との共存を未来から到来させなければならないのだ。そしてこの行為は現代においてもはや英雄的な行為とはなりえない。「現代は低い位置から自らを評価する時代なのです。」(p. 307)。ヴォルテールのように上方から自他を俯瞰するのでもなく、また神のようなメタレベルの存在、超越的な存在に頼ることもできない。私たちは、自他の間において、わずかにきらめく火花をそっと伝えるようにして、ただし不安を孕んだユーモアをもって、自他の共存を作り出していくのである。(1366字)