廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『感覚の論理』まとめに向けて 2

コメントより
「ベーコンの叫びによる脱出は、万人に共通する感覚を見つける行為なのではないか」
・感覚的なものの間主観性
・他者の感覚の経験可能性。
→ 画家の営みに注目することは、このような感覚の普遍性のみを画家が追求したからではないか。
メルロ=ポンティ「自己は、みずからの最も深いところにおいて、他者と世界に開けている」(「他者の知覚と対話」『世界の散文』所収)
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・(1)構造(単色面、平塗り)(2)輪郭—図像=形象(3)人物(Figure)の関係について、作品81を例に考える。

現象学的感覚論に向けて(p. 52以下)。
・「世界内存在」としての感覚において、<私が感覚になる>ことと<感覚において何かが起きる>が同時に起きる。感覚は「物体」の中にある(p. 53、改訳)。私たちは林檎において感覚する。このような「感覚に結合された形態」(p. 54)を描くこと。
・「移行」や「デフォルメ」を司るものとしての感覚(p. 54)
「叫び」シリーズなどは、ひとつの感覚のもろもろの移行とデフォルメである(56)
・感覚の暴力(58)、下降、収縮、膨張(59)その場限りの運動、痙攣(不可視の力)(61)
・感覚の統一を見えるようにすること(62)それは「リズム」によって可能になる。「拡張と収縮」「私自身を捉えて私自身のなかに閉じこもる世界」「世界にみずからを開き、みずからも開く私」(63)

現象学を越えて(64)
リズムがカオスに潜り込む。水準の撹乱。器官なき身体。非有機的な生命。ヒステリー的身体の時間性。覚遊病者と自己視。

映画論について
ベルクソンが運動について語ったのと同じ時期に、映画が運動を、そして運動の彼方にある時間について表現し始める。映画を哲学的概念で論じるのではなく、映画そのもののイマージュのあり方から問題を提起すること。

・運動—イメージ。感覚—運動的身体。時間は運動に依存している。
・時間—イメージ。時間が運動から解放される。結果としてモンタージュに亀裂が入る。「耐えがたいものを耐え忍ぶ」登場人物(ロッセリーニ『ストロンボリ』)、actuel-virtuel, 透明と不透明の交換(オーソン・ウェルズ『上海から来た女』)
→ 現実と想像、知覚とイメージという区別では語れない。Fakeの力。

ベケット(Beckett)『フィルム(Firm)』

レポート
締切:2月15日(水)17時
提出先:manaba(https://manaba.tsukuba.ac.jp/ct/home)にて
「先端文化学研究VI」レポートのタグより。なんらかの理由でmanabaでの提出ができないときは、hirose.koji.gt@u.tsukuba.ac.jpでもよいが、そのばあいのみ教員の受領メールでレポート提出とする。
課題:
ドゥルーズ『感覚の論理』において、現在取り上げるべき概念や主題に注目し、それをまとめながら自分なりのコメントをすること。
構成:
1) 序(問題提起)
2) 序の展開
3) 本文(テクストに踏み込むor自分なりの展開を行う)
4) 3)から得られる帰結
5) 冒頭の問題への回答
字数:3000-4000字。
・『感覚の論理』からの要約は頁数のみでよい。例)ドゥルーズは『感覚の論理』において「器官なき身体」とは「・・・」(69)だと定義する。。。
・他のテクストを引用するときには出典を明らかにすること。脚註などが望ましい。配布プリントを使用するときもほぼ同様。
・自分なりの例に接続することは望ましいが、テクストからの問いからあまり離れたり、他の授業で習った内容などは原則として避けること。
評価基準:
・テクストの「読み」に基づき、そこに適切な「問い」を見出そうとしているか。
・その問いに基づいて、なるべくテクスト全体を振り返っているか
・この問いに対する「応答」が、しかるべく論理的に提示されているか。引用が適切になされているか
・以上の過程で、独自の視点や考えが示されているか
・全体のまとめがうまくなされているか。
・フランス語原文を見て、すべて改訳したら、学問的な貢献は甚大なものとなるでせう。。。。