廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

文化科学領域入門演習

ロラン・バルト『明るい部屋』1-4
I. 議論の流れ:
問い:「写真」とは〈それ自体〉なんであるのか。= 写真をほかの芸術と区別するものは何か(p. 7)。

問いに答えるための手がかりとその困難
1) 従来の分類は写真の本質とは無関係。写真の「新しさ」を示してくれない。
2) 一度しか起こらなかったことを数限りなく反復する。「偶然」「機会」「遭遇」「現実界」「空」「如実」あるがま、かくのごとし。。。→ 身振りをともなう。「指呼的な言語活動」
3) 写真と指向対象の不可分性(p. 10)指向対象の強情さ。
4) 記号としての不完全性
5) 指向対象の密着(p. 12)→ 従来はうまく語られていない(写真の技術史、歴史的分析、社会学的分析(ブルデュー))
6) バルトのもくろみ。写真一般ではなく、「野生の状態で、教養文化(culture)を抜きにして向かい合」うこと(p. 13)。

出発点としての感動
・表現的言語活動と批評的言語活動の板挟み→ 自分を「写真全体の媒介者」(p. 15)とするMathesis singularis
1) 撮影者:遠近法、感光(化学)と映像形成(物理)
2) 幻像(spectrum):スペクタクル+亡霊、という意味を暗示
3) 観客
2,3に徹して考察を進める
II まとめと感想
・担当箇所でバルトは「自分を全写真の媒介とする」というもくろみを提示
・それは学問的な「一般化」を拒むようなものである。Ex. 社会学的な写真の解釈など。
・バルトは先行仮説が「袋小路」に陥ってしまうことをていねいに説明しながら議論を進めている。
・mathesis singularis
・「指向対象の密着」というのがわかりにくいので考えてみたい。

III 興味深い点・引用
(1) 写真の同語反復

「写真」というもの(… )には、何か同語反復的なところがある。写真に写っている一個 のパイプは、つねに、どうしようもなく一個のパイプである(… )。ある種の刑罰では罪人を死体にくくりつけるが、まるでそれと同じように、「写真」とその指向対象は、互いに手足をぴったりと重ね合わされている(… )。「写真」は薄い層を成す対象の部類に属していて、その二つの薄い層をこわさずに引き離すことは不可能なのである。たとえば、窓ガラスと風景がそうであり、また、言うまでもなく「善」と「悪」、欲望とその対象がそうである」(p. 11)






「矛盾」? しかし矛盾はふつう言葉と言葉の間。これはイメージと言葉の食い違い。
「これ」(Ceci)とは何を指すか。「これ」という文字は「パイプ(物)」ではない、とも読まれる。
「これ」がパイプであることはそもそもあたりまえ。「これはパイプである」という文章のほうが不自然。
これはパイプの「絵」であって、「パイプ(物)」ではない。絵と描かれたものの関係。
Cf. ミシェル・フーコー「これはパイプではない」『フーコー・コレクション 3』ちくま学芸文庫
マグリット<野の鍵>

さてこれらを受けて、バルトの言葉をどう解釈すべきだろうか。

・私たちは「暗箱」モデルに影響されてしまっている。
<物>—<イメージ>—<精神>(イメージを<物>
として「解読する」計算機。)
絵画は20世紀にいたるまで私達の思考のモデルだった。写真の時代において私達の思考モデルも変わっていくだろうか。それとも同じモデルで考え続けてしまうのだろうか。