(つづき)
「そうかも。いずれにせよ、あなたの言うように、受動的感覚と能動的統握の交差点に、セザンヌのイメージの技法が位置している。彼が創発の可能性を賭けるのもそこだ。そのために過去の技法と、最新の科学を投げ込んでみてもよい。だが技法と科学は、あくまでこの創発の所産でもある」
「まあ納得したことにしましょう。その交差点に、いわゆるモチーフがあるわけだ」
「そのとおり。受動性と能動性の交差点に、いわば世界全体が凝縮されることになる」
「過去の記憶イメージの集積と、いろいろな人工物の堆積もそこにある、と」
「時間論を入れてくるとややこしいが、まあそうだろう。じつは未来のイメージもそこにある。ある時点に成立している身体イメージのありかたによって、外界から受容されるものの意味が決まってくるからだ。偶然の出来事が無視されたり、大きく影響を及ぼしたりするのもそういう理由だ」
「それだけ重ければ、セザンヌも『落ちてくる』と言うはずですね。でもモチーフって見えるのかな」
「ん?」
「見えるものって重くないでしょ?」
「ああ。。」
「身体性の問題と言えば簡単だが、2段階で答えてみよう。まずモチーフは『見えない』。しかしこの「ない」がどういうことかを考える必要がある」
「はあ」
「たとえば円の幾何学的な本質は見えない。伝統的には、それは精神が本質を直観することで把握されるとされる。経験的に与えられるのは、厳密に言えば円ではなく、どこかゆがみがあるのだが、それをないとして、共通の本質を取り出すのが直観のはたらきだ」
「セザンヌからまた離れているのですけれど。。。」
「セザンヌが円を表現するやりかたはそうではないと言いたいわけだ」
「はいはい」
「たとえば斜めに置かれた円は楕円に見える。デカルトは精神の判断がそれを円<として>把握すると考えた。それにたいしてセザンヌは、楕円を楕円でないものとして顫動させる。円になろうとして円になれず、かといって楕円であることに甘んじることができないような形態を増殖させるのだ」
「楕円のお気持ちに詳しいことで」
「形態化のプロセス、と言ってしまったほうがわかりやすいけれど、それをあえてこういう言い方をするのが画家というものだし、メルロ=ポンティはそれを救い出すわけだ」
「はじめに形態化、と言って欲しいな」
「それだとまさに記述の力が消えてしまう。それはともかく、形態化のプロセスは、まさに現れのプロセスそのものであり、それ自体は見えないけれど、『見るべきものを与える』わけだ」
「ああ、それが『奥行き』っていうやつね」
「はい、あたりです」
「引きずりすぎだよ」
「メルロ=ポンティだって、それを持ち出すのに二〇年近くかかったわけだし」
「ごくろうさまです」
「メルロ=ポンティが『可視性の肉』という言葉を発するまでに、どれだけの知的作業を強いられたかを言いたかっただけだ。それを考えると『器官なき身体』とか、のんきに言えないわけだ」
「現代思想はいいって」
「ならいい。現前するものに本質的に含まれている現出のプロセス、それは見えないが、見ることを可能にするものであるというのが第一点」
「視覚中心主義だねえ」
「そう言うのは簡単だが、視覚中心主義を批判してふんぞり返るほうがのんきなのだ。」
「のんきでごめんなさいよ」
「で、質問へのこたえだが、ひとことでいえばモチーフは『隔たり』として現前する。デフォルマシオンの「デ」として現前する。」
「デフォルメってやつね」
「それは一部の特徴を拡大することを言う。隔たりとは、視覚システムにおける、現前化=制作のプロセスにほかならない。それはデフォルメの「デ」としか現前しないけれど、鑑賞者の身体の潜在的な可能性を呼び起こし、行為の選択の可能性を裕にしてくれるんだ」
「あ、ごめん、聞いてなかった」
「先走りすぎたな。第2点に移ろう」
「暴走してるね」
(3に続く)