廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

「セザンヌの懐疑」1

セザンヌの絵画って病的って言っていいのかな?」
「いや、あれこそ自然的な知覚に近いのだ。心理学者もそう言っている」
「なるほどー、生きられた知覚ってやつか」
「そのとおり」
「あれ、自然的な知覚なのに、心理学を勉強しなきゃだめなわけ?」
「うむ?」
「『自然』て何?『生きられた』って、心理学はいらないってことじゃないの?」
「心理学は記述に役立つわけで。。」
「それは主観的記述とはどう違うのでしょう。社会科学はむしろ、知覚が社会的に意味付けられている
ことを示そうとするわけで」
セザンヌ印象派を通過しているわけだから、一方で<感覚>の次元からは動かない。だから社会的な
意味づけはいちど括弧入れされる。その自明性が停止されるのだ」
「一時停止ですか」
「にもかかわらずセザンヌは、事物の「堅固さ」と「持続性」をも追求する。でも外から秩序原理は
持ち込まない」
「ずいぶんと矛盾したことを考えるなあ。それがセザンヌの葛藤を生み、作品はそれを昇華したものだ、
と言いたいわけか」
「それは違う。セザンヌ心理的問題ではない。受動的な知覚の次元と、概念把握につながる統握を、同じレベルに置くことなのだ。知覚世界そのものがその矛盾をはらんでいて、その矛盾をこそ『生きられたもの』として表現するわけだ」
「言葉ではわかるけれど。。。」
「言葉ではない。むしろそこで問題になるのが『発生』の問題なのだ。」
「発生と言われても」
「いままさに物が物として現れてくる自発性のことだ。あるいは世界に秩序が生まれつつある自発性
と言ってもよい」
アニミズムだね」
「違う。あくまで『現象』として捉えるのが現象学者であり、画家の営みでもある。アニミズムではないが、こうした視点からアニミズムを理解することもできるだろう」
「ふうん、ずいぶんセザンヌから離れたなあ」
「そりゃ。。。 セザンヌをモデルにした、セザンヌによる真理論だから。形而上学は美しいのだ。世界の始まりを問うのだ」
「そのお美しい形而上学セザンヌの作品に戻せないかな」
「それは。。」
「芸術作品はたんに鑑賞すればよくて、言葉をはさむべきではないという人も多いよ」
「だから、セザンヌ創発性そのものを取り入れた言葉を創出しようとしているわけで。。鑑賞だけでは自己満足に陥ることが多いのだ。感動したぞ、とかね」
「それはそうだけれどやはりセザンヌの作品がないがしろにされては困るなあ」
「そのこたえにはならないけれど、たしかにセザンヌの技法の問題は本質的だ。また色彩や形態について、セザンヌの時代の人が持っていた科学的知識も無視するべきではない」
「だけれど、話を聞いていると、孤独なセザンヌが、自然や風景を前に、必死に修行しているようなイメージがしちゃうなあ」
「そう、たしかに修行かもしれない。そのばあい修行とは、無からの創造でもなく、ひたすら受動的でもないような、媒介的な能力の練成過程のことだ。本能でも学習でもないものといってもよい。フーコーディシプリンとか、自己の配慮と呼んだのもそういうことだ」
現代思想はいいよ」
「いずれにせよ、たしかにセザンヌルーヴル美術館でさまざまな技法を研究した。それはいわばイメージの内的なダイナミズムを身体に取り込むことなんだ。それが身体イメージを変容させてくれる」
「そのばあい、イメージって、受動的感覚でも能動的統握でもないもののことだよね」
「あなたは物わかりがよすぎるのがいけないが、まあそういうことだ」
「だってこういう会話って、聴き手が説得されないと終わらないからね」
「それが弁証法の陥穽だな。言語そのものの陥穽と言ってもいいけれど。だから『終わりなき対話』になる」
「それは重いよ。答えなき問いとか、そういうのもういい」(2に続く)



発生的現象学⇨世界全体としての「自然2」の登場⇨自然2からの「系譜学」(フーコー的意味での)の必要性⇨「真理の起源」⇨しかしじつは「自然1」と「自然2」は同じものである⇨だが同じものであるという出来事が制作されなければならない。制作のプロセスは「自然1」と「自然2」のあいだそのものである。⇨ 「セザンヌって普通ぽい」(ドクサ)⇨次のサイクルの表現の端緒