廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究IV:土方巽とメルロ=ポンティ

メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)思想の特徴
1) デカルト心身二元論の乗り越え
2) 現象学の深化。とくに論理主義的なフッサールではなく、後期のフッサール(身体論、他者論、時間論、言語論)からインスピレーション。ハイデガーとも重なる。
3) 身体論に関して、心理学、社会学、人類学、言語学、科学などからインスピレーションを得る→ フーコーに影響
4) 現代は、認知心理学看護学リハビリテーション、ケア学、人類学などがメルロ=ポンティからインスピレーションを得る。
5) 文学(ヴァレリークローデルプルースト、シモン)芸術(とくにセザンヌ、クレーの絵画)を哲学のいとなみと同等のもの、あるいはそれ以上のものとして位置付ける(「セザンヌの疑い」「眼と精神」)
6) 晩年の『見えるものと見えないもの』(未完の遺著)。キアスム、肉の概念を提唱。その「草稿ノート」は尽きせぬインスピレーションの源である。
7) 政治論。とくにマルクス主義サルトルとの接近から訣別へ。
主著ブックガイド。
みすず書房からは『メルロ=ポンティコレクション』も出ているが、『ヒューマニズムとテロ』をのぞいて単行本の再編集なので、図書館などでもとの単行本を見た方が通時的に彼の思想を追える。
・『知覚の現象学』(1945)初期の主著。「身体=主体」、心理学との対決、幻影肢、認知の病理、「語る言葉(parole parlante)の言語論、沈黙のコギト、時間論など。序は彼なりの現象学入門になっている。
・『世界の散文』(50年代初頭)。言語・絵画を中心とする「表現」の現象学。具体的で、訳文もわかりやすいのでおすすめ。
・『意味と無意味』「セザンヌの疑い」「人間とその逆行性」などから始めるとよい。
・『シーニュ』(全二巻)論文集。「間接的言語と沈黙の声」「言語の現象学」などがよい。やや訳が古いのが難点。
・『眼と精神』(1960)エッセー調ながら、晩年の「存在論」を集約した最後の刊行物
・『見えるものと見えないもの』(上記参照)
・『弁証法の冒険』マルクス主義サルトルの批判。「弁証法」概念の有効性と限界が論じられる政治哲学の書。
「幼児の対人関係」(『眼と精神』所収)。発達心理学、教育学などでよく参照される。
メルロ=ポンティ名言集
現象学バルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦である。おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれいずる状態においてとらえようとする同じ意志において。」(『知覚の現象学』序文終わり)
「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である」
「まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋な表現へともたらさなくてはならない」
「わたしが悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れ切っているあいだにも、すでにわたしのまなざしは前方をまさぐり、ぬかりなくなにか輝いたものをめざしており、こうして自分の自立した生存を再開している。」
「私は知覚的経験によって世界の厚みへのめり込んでいる」
「われわれは対象の奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、堅さなどを見るのであり、それどころか、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見るのである」
「どんな感覚も夢や離人症の萌芽を含んでいる」
「われわれはスタイル(様式)が画家と世界との接触点に、画家の世界知覚のくぼみに、そかもその知覚から発したひとつの要請のようにして立ち現れてくるのをみなければならない。」
「(ルノワールは)海が液体というものを解釈し、液体をさまざまに顕現させるその仕方、液体のあれこれのこと、つまり水の諸顕現の類型学を語らしめるその仕方しか、海に求めない」
「世界のもろもろのデータがわれわれによってある種の「一貫した変形」にしたがわされるとき、そこに意味が存在する」
「言語は沈黙を破ることによって、沈黙が手に入れようと望んで果たし得なかったものを手に入れる。しかし沈黙は言語を包囲し続ける」
「われわれが制度化ということで考えているのは、ある経験に、それとの連関で一連の他の諸経験が意味をもつようになり、思考可能な一系列、つまりはひとつの歴史をかたちづくることになる、そうした持続的な諸次元をあたえるような出来事、ないしはわたしのうちに残存物や残滓としてではなく、ある後続への呼びかけ、ある未来の希求としてのひとつの意味を沈殿させるような出来事のことである」
「歴史の概念を、芸術やことばをモデルにして作りあげること」
「可逆性。。裏返しになった手袋の指。ひとりの目撃者が表裏両方のがわにまわってみる必要は無い。」
「身体は世界の前にまっすぐに立っており、世界はわたしの身体の前にまっすぐに立っていて、両者のあいだにあるのは、抱擁の関係である。これら垂直的な二つの存在のあいだにあるのは境界ではなく、接触面なのである」
「存在へのすべての関係はとらえることであると同時にとらえられることである」
(鷲田清一メルロ=ポンティ』より)
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土方巽(舞踏家)
 「一個の身体の中でいつもはぐれている自分とでくわす、自主的にその人にでくわさせるようにするのです」
「要は、からだにからだがはまってしまってバリバリ音立てて裂目が出来た。その裂目が表へ出た。つまりからだの裂目にからだが落ちたのではなく、裂目はもともとからだなのである。(…)無数の裂目が埋められた肉体の声は、物質の叫びを改めてハンカチにつつむようなものだ(H I-225)。
 「尊厳な風景とのあいだに、バシッと折れるような緊張関係を持って、ただ目を見開いている肉体にわたくしはなり、いたいと思うのです」( H II, 175)
 「自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていってみたらどうだろうか。自分のからだに闇をむしって食ってみると思うのです」(H II, 11)
 「それゆえわたしが何処かへかえりたいと思うことの裏には、わたしみずからを埋没したいという願望が含まれていなければならなかったーー衰弱体」(H II, 306)
 「関節がはずれて、はずれた足が相手に近寄ろうとして二、三歩動く、そういう運動が大切だと思うのです」(II, 13)「だから自分の膝関節をはずして道路に座るんです。すると自分の頭で考えていたわくからはずれた関節の平野が広々と広がってくる」(II, 118)遭遇
「突然足元から崩れていく、ですから一から始まらないで、永久に一に到達しないような、動きの起源というものに触れさせる」(H II-37)
、「手が手に似てくる瞬間」(H I, 264)「自分に似ているものは自分しかないというふうな末恐ろしい汚物」(II, 105)
「夜通し寝ずにいた鏡のような恐ろしい感じが、私のからだのなかに入ってくることがあった。私はすぐからだを揺すって、カチャ、カチャとその天災のような鏡を毀してしまうのだった」(II, 45)。
 「私の身体の中で死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい。死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい」(H II, 120)
「或る時にはその身体の中に採集した身振りや手振りが私の手に繫がって、表へ出てくることがある。私が物をつかもうとすると、つかもうとする手にまた次の手がすがって、手が手を折って手ボケになってしまってなかなか物に到達しない」(H II, 119)

B・ヴァルデンフェルス、山口一郎監訳、三村尚彦・稲垣諭・吉川孝・中山純一訳『経験の裂け目』、知泉書館、三頁。「こうした〔壊れやすい〕経験には裂け目が走っており、その裂け目の運動は、始まっては途絶え、新たな運動が突発したりしながら、割れ目を見せており、その割れ目は陥没であったり、突出であったり、峡谷であったりしながら、大地が途絶え、崩壊する土地へと迷い込んでしまう。」