廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

観世寿夫の井筒から

身体とは「起こらなかったことがありえなかったような出来事」が到来する場である。記憶を越えた過去の出来事でありながら、それは現前野において、いわば目の前に繰り広げられていく。私たちはいわば後ずさりするようにして、この出来事に遡っていく。現在の現実はすこしずつとけるようにその現実感を失っていき、そこに過去が上書きされては消えていく。後ずさりする身体の目の前に、過去がすこしずつ繰り広げられていき、身体が崩れ落ちるとき、「そこ」において「起こらなかったことがありえなかったような出来事」に貫かれるのである。これは一種の無意識の到来だろうか、いや、無意識と呼ばれるものを、この後ずさりする身体の「舞台」として理解しなければならないのだ。
このような身体を表象していたのは、いうまでもなく「悲劇的なもの」であった。古代ギリシアにまで遡るのを避けるならば、世阿弥の「夢幻能」を想起してもよい。
廃墟となった在原寺に通りすがりに立ち寄った僧の目の前に、月に照らされた井戸の水を汲む女が登場する。この女はいわば記憶を喪失して、「昔男」という神話的な「名」に操られて、廃墟で水を汲む亡霊の現われである。前場の終わりで彼女は、「紀有常の娘」「井筒の女」という不確定な名の背後に消え去っていく。
後場で業平の衣装を身につけて現れた女は、恥じらいながら舞を舞い、月に照らされた井戸をのぞき込み、「見ればなつかしや」と謡いつつ、後ずさりし、消えていく。
この作品において「起こらなかったことがありえなかったこと」、それは言うまでもなく、この舞台にはけっして登場しない業平の身体の記憶である。男装した女性(を演じる男性のシテ)がススキを持ち上げる動作とともに前屈みに井戸をのぞき込むとき、その記憶が甦るのだろうか。『井筒』は過去の「再認」の物語なのであろうか。
そうではあるまい。業平はすでに過去の現在において「昔男」であり、それ自身とも一致しない存在にすぎない。井戸の水の中に、彼女は過去を再認はしない。おそらくそこにあるのは、月の光の横溢だけであろう。これは後ろ向きの鏡像段階による、身体感覚の回復とはならないのだ。
「起こらなかったことがありえなかったような出来事」に彼女が襲われるのは、井戸を覗き込んだあとに後ずさりし、「凋める花」のごとく崩れ落ちながら、みずからの身体を感覚するときである。「我ながらなつかし」きもの──すなわち、自分の身体でありながら、自他の境界であるようなものに触れる経験においてである。衰弱する自己感覚の渦の中心において、過去の存在の記憶そのものが立ち現れる。視覚ではなく、ほとんど触覚的な経験において。だがそれも確かな感覚ではない。後ずさりしつつ、衰弱しながら身体、みずからのうちにみずからをまきこんで衰弱していく身体の自己感覚においてのみ生起する出来事が問題になっているのだ。いやはたして身体の感覚であろうか、それはむしろ亡霊が身に纏う業平の衣装の自己感覚なのではないか。亡霊の身体感覚と、衣装の自己感覚の交差がそこにはある。
物語や言い伝え、場の記憶といった神話的な枠組の中の「夢幻能」として展開しながら、世阿弥はそれらの自己同一性をことごとく解体することで、「起こらなかったことがありえなかった出来事」を見る者ひとりひとりに経験させる。シテのはじめから不確実な同一性は、衣装としてしか登場しない業平に重ね書きされながらかろうじて舞いつつ、崩れ落ちていく。衣装がやっとのことで起き上がって広がり、衰弱していくプロセスだけが舞の舞台であるかのように。神話的記憶が支える同一性は、この広がりと衰弱のプロセスを見えるようにするためだけにあるかのようである。
こうしたすべてのことが、井戸を覗き込んだあとに後ずさりする身体として舞台化されているのである。「欲望する身体」というものがあるとしたら、このようなものでしかありえない。いや身体はそもそも欲望でしかありえないのである。

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