『歓待について』(2)0422(重要点に線を引きました)
補足:
デリダの講演は「行ったり来たり」を繰り返すので、筋をつかみにくいですが、まずは180ページ以降の「訳者あとがき」を併読しておいてくれるとたすかります。
ポイント:
(1)p. 183− 移民難民問題。デリダに先立つ考えとして、いくつか挙げられる。
・イデオロギー的な外人排斥
・それに対する左翼的運動
デリダは最終的にはこれらの間に位置しているが、この「間」も二つに分かれる。
・デリダのように「無条件の歓待」をなんらかのかたちで記憶に留めているタイプ。
・デリダの「無条件な歓待」などは「終わった」とみなし、より「現実主義」的な立場を目指すもの。いまはこれが優勢(p. 196参照)。「責任の断片化による権力の全体化」(23)
とくにフランスは「寛容(tolérance)」の国ということが人権宣言に書き込まれている。しかしこれはナショナリズムと矛盾しない。
当時の移民政策(移民の波を統御する)。出生地主義の見直し。→「サン・パピエ」の運動(滞在許可証をもたない人)
(2)デリダ自身の「異邦人性」
・フランス人だが、19歳にフランスに行ったときに強い疎外感。(『他者の単一言語使用』岩波文庫)。
フランスのドイツ占領下に、市民権を奪われる。「おそらく家の喪失という経験を耐え忍ぶものだけが、歓待を供することができるのだろう」(21)
「母語」=自分に固有なもの、という考え方に異議。
「共同体」という言葉は避ける。
そもそもhospitalité/hospitalityとは(176-177)
・hôte/host(主人でもあり客人でもあることに注意)。
語源はhostis (敵)、hospes(主人)
*hosti-pet :-pet-は個人のアイデンティティ(ipse)、その能力や権力を示す。
Hostis : 「契約」「盟約」として、相互的にお互いを受け入れること。
・したがって「伝統的な」ホスピタリティとは、ある種のアイデンティティをもった集団ないし個人どうしが、おたがいに契約を交わして成立するもの。
・語源的に「敵」という言葉がはいっている。
・契約としての相互的歓待→まずは他者(異邦人)が不意に現れ、自己に侵入すること。
・まずは「自己性」「権力」があっての歓待→他者が侵入し、それが「敵」として振る舞う可能性を考慮しなければ歓待はない。
- 102-106 :
102 :
デリダは「境界=限界」(リミット)の哲学者と言われる。彼の思想は、既成の境界や限界を打ち壊すのではなく、そこに「斜めの線」を入れ、境界を辛抱強く解きほぐしていく作業である。そのためには、ときに極端な限界突破も必要である(それは「誇張的方法」(デカルトの「欺く神」)と言われる)。デリダは、まさに国家と国家の境界にいる「誰か」に注目するのだ。
・絶対的・無条件で誇張的な歓待の唯一の掟 (到来するものarrivant の不意のおとずれについて開かれている。自分の固有性も放棄してしまう)
・条件的で、権利や法律にかかわるような、もろもろの法(ギリシア=ラテン、ユダヤ=キリスト教、都市法、国際法、カント、ヘーゲル)
この二つの関係をどのように考えるかにすべてはかかっている。
- 両者は根本的に異質(二律背反、カントは理性が、伝統的な形而上学の問題に直面して、自己矛盾に陥るようにみえることを示す。世界は有限か無限か、自由と必然など)
- 前者はまさに「掟」であって、後者を超越する。ある意味「法の外」(anomos)にある。〔都市から追放されたオイディプスはanomos〕。
- ところが前者は、掟であるためには、もろもろの法を「必要とする」(現実化しないと抽象的なものにとどまり、掟でなくなってしまう)
- しかしそのことによって、前者はさまざまな経験的な条件にさらされ、「堕落する」可能性がある。
- 後者も法として機能するためには、前者に導かれ、改良され、歴史の中で進歩しなければならない。そうでないとたんなる改良主義になってしまう。
デリダの思想:両者は根本的に異質であるが、両者がつかのま「同時成立」する瞬間はないか、その「瞬間」こそが、真の歓待の瞬間ではないか。「歓待は不可能である。だからこそ、それを目ざさなければならない」そのときに「ウィ(イエス)」と言おうではないか。
デリダの思想の特徴:
純粋とされるようなもの(本質、真理の現前、純粋な生命など)が、かならず不純なものに感染していることを示す。さらには、不純なものが感染しているかぎりにおいて、純粋たり得る。
→ 純粋と不純は「非決定的」
→ この非決定性のさなかで決定すること。
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次回は「絶対的で無条件の歓待」の「堕落可能性」の例として、インターネットと歓待の問題をかんがえてみよう(p. 84-90)