廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

オートポイエーシス2001 河本英夫

コメントより
・「AをBとして知覚せよ」。作品を作品として成立させる条件の提示。意味形成の「可能性」が鑑賞を可能にする。思考や批評の対象ではない。
・「ある作品には意味理解の境界線上に立つ行為主体を境界線のむこうがわへと押し出してしまう動力がある」:純粋経験西田幾多郎
・「行為そのものを<ただ>行うことができるか」。習ったからではなく、思い込みなくただ<見る>ことで浮かび上がってくる意味。
・見ることを通じて<意味>を形成すること=見ることの中の一つにある「認識」
・「強度」経験の動きの勢い。「雰囲気」?実体ではない。
・「重力」への相即という考え方は何かに似ている。。。。
・「見る」こと:認識は既知のものを見たものに照合すること。「行為」は「視界に入れたものについて、ゼロからどのようなものであるか考える」
オートポイエーシス論のポイント(『オートポイエーシス2001』p. 282-284)
・「制作していること」を第一に考える。「なにか」が作り出されること
・制作していることが「自己を形成すること」
・日々自己自身になり続けること、という経験の自在さが必要
・行為を継続→ 自己と境界を作り続けること→自己は内部も外部もないような「境界」そのものの強度となる→ 外界や他者との関係もつねに作り直される

荒川修作は、こうした行為の場をそのまま作品化する。見る人は、たんなる鑑賞者ではなく、一種のエクササイズの場にひきこまれる。

例)「AをBとして・・」
1 ネガティヴな(ポストモダン的)解釈:既存の意味の破壊、意味のコンテクスト(文脈)がない、断片が宙吊り、意味の脈略がない
2 ポジティヴな(オートポイエーシス的)解釈。
・1は、これを完成された鑑賞物としてみている
・これはむしろ知覚のやり直し、という実は日々私たちがおこなっている行為を目覚めさせるもの
・作品をみずから経験し、意味を形成するための場所そのもの
・エクササイズ、経験がうごめくこと。
・見るという行為を通じて、意味形成を実行する。
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荒川修作『死なないために』
「知覚することを感ずること。自身をブランクとして知覚することを感ずること」
「自身をブランクとして知覚することを関することのただなかにおいては、誰のブランクが作動しているのか。ただ行為が作動しているのである」
「かつてブランクに属するものがあった以前でさえ、時空は欠落していた。切り閉じる作用〔分割し=くっつける〕すなわちブランクの固有性の形成」
「濃淡のさまざまな綾を調和させながら、切り閉じるもの、すなわち原感覚は、部分的に感覚器官へと発展するが、部分的に未定の形成を継続し、ブランクのままである」
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原感覚:対象のない感覚だけが動き続けている感じ。運動と感覚が交差する瞬間。意味がうまれそうで、かたちが作られそうで、作られない。顔のない笑いのように。
 しかし私はその感覚を確実に経験しているということは感じている。それは私の身体の中に、思い起こすことのできない記憶として眠っている(「けっして現在ではなかった過去」(デリダ)のように。。。)。
 それは身体になにか重力のように働きかける記憶である。それは実体として現前しない。しかし、なにかを作り出す行為において、経験されるものでもある。思い出せない過去が、未来からふとやってくる。。。

勅使河原三郎
・環境の特性を身体知覚すると同時に、その都度環境との境界を切り閉じ続けている。回転しながらその都度動きの軌道を変えていく
・型にあえてはまることで、そこに「距離感」や振幅を作り出す。その距離感の程度が「強度」と呼ばれる。
・「関節の中に会話や議論がある」=「関節の自在性」関節で音色を感じる。
・足の裏の局面=身体を浮かせること。
・重力との「相即」。重力より早く落ちたり、一緒に落ちたり、重力よりゆっくり落ちるときの「遊び」を生み出す。重力の中につり下がる。多様な方向感覚が生まれる「窪み」。アンテナとしての窪み。
・自己を振動させることとしての声。
・<光>の裏側。内側から外界への扉を開くこと⇔混沌(『荘子』)。目が光を感受し始める状態。皮膚がなにかを感触しはじめる状態。耳が「沈黙を聞く」状態。味覚、嗅覚。。。