廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

まとめ1

学生のコメントとコメントについてのコメントの合作

コメントを受けて

・これまでの授業で示したかったのは、身体の運動、身体と道具との関係が、たんなる身体の訓練ではなく、すでに持っている「思考回路」そのものをも変えることである。主体と客体や道具はつねに連動しており、「双方向的運動」「二重であると同時にひとつである」状態がある。 Cf. オートポイエーシス理論ではこれを「経験の変容」、「相即」と呼んでいる。
・既成の風景のささやかな「断片」への「気づき」が、「圧倒的な質量をもって全体へと拡張してしまうこと」がある。相即の中には、「逆転」も含まれているのだ。
・テニスの例。意識をせずに「ボールを狙ったときに打ててしまう」。物との一体化であり、物と人間との関係の逆転でもある。夢を見ながら、それが夢であることを意識しているような、二つの感覚が混じり合っている状態。
・書道の例。筆が私の身体に変化をもたらし、指示を与える。「習慣の獲得」。条件反射だが「美的感覚や他者の感情、過去の経験」などが入り込んでいる。
・ダンスの例。音のリズムに身を委ねることで、むしろそのひとの「スタイル」が立ち現れてくる。反復における、予想外な偶然性のあらわれ。自己も他者も驚かせるような場の立ち現れ。
・読書の例。作者と読者の逆転。ある本を読みながら、今ひとつ言葉がなじめない、世界に入り込めない。しかしあるとき、言葉が急にリアルに感じられ、本の世界が私たちの世界に侵入することはないだろうか。ネット社会においてこれはどうなるか。
・自己についての小説を書くと、一人称でも三人称でもない、あいまいな次元が開けてくる。たとえば自伝小説を書いたとき、幼少時の記憶は、いったい誰の記憶だろうか。当時の経験そのものか、現在からの再構成か、まわりにいた人の会話や仕草もその中にないか。「かつての自己」そのものなどあるだろうか。

・仮面:私たちはかけがえのない「人格(person)」を持ちながら「対他関係」において「人物(personage)」を演じる。仮面とは、「身体を延長」させることで、その二つが固定してしまわないようにすることである。仮面だけでなく、あらゆる身体の一部や道具がこうした「媒体」たりうる。→ 社会学的な分析は、後者の「社会性」を強調する。
→ 教育実習の体験。マニュアルに添って「演じている」うちに演じることの「質の変化」が生じる。教師としての私と教師でない私の二項が、「変身」の過程に移行する。
・仮面によって「自分をさらけだすこと」。そのとき見る自分とみられる自分が交錯する。素顔と仮面がひとつであると同時に、別であること。仮面は、視野を遮ることで、「自分自身を実感する」が、それが同時に「他者へと開ける」ことでもある。
・「表面でも素顔でもない何かを「おもて」(第三の顔)として視覚的に」落とし込んだのが能面。さらにいえば、このような自己の内部と外部のインターフェースがまず先にあって、それがあるかたちで作動することで、内部とか外部とか呼ばれるものが区別されるのではないだろうか。
・面が人を取り込み、面によって解き放たれる「前後不覚」、周囲世界との「ずれ」が生じる。この「ずれ」こそが、「わたし」が生まれる場なのではないか。ひとりで仮面を着けるとき、鏡越しに面をつけた自分を見たとき、どうなるか。
・「離見の見」「目前心後」。小説における「おもざし」。一人称小説と三人称小説との境界が曖昧になるのでは。フィクションとしての「一人称小説」「自伝」(スタンダール)。客観的な語り手による「三人称小説」に、不意に作者が介入するとどうなるか。
・演劇における「台本」。台詞を一人称で語ることと、語らされることの「ブレ」。そこに「離見の見」があり、「仮面」がそれを助ける。「他から見られる動きそのもので自我を意識することなく表す」からだ。
・「コスプレ」の場合。仮面としての装飾具。ただし「物語のコンテクストに身を置くこと」が重要である。小説の人物への「投射・投影」も作用する。

・部分と全体、主体と客体、人格と人物のたえざる運動。これは一種のメタファー(比喩)的な思考を切り開いてくれるのではないだろうか。私たちの世界を「取り巻くもの」は、たんにひとつの客観的な意味だけではなく、こうした比喩的な意味をも隠し持っているのではないか。

・これは「演じる」ことが、嘘でも本当でもあることと関係する。演じるという「嘘」に真実があること。「これが真実だ」という「現在」の経験にも嘘が混じり込んでいること。このような経験を通して、「新たな役割を演じる自分」が創出されるのではないか。

ジャック・デリダの「二項対立の脱構築」は、たんにどちらかを優位に見るのでもなく、「二つの矛盾を知りながらも、それを受け入れること」である。デリダはこれを「アポリアを耐え忍ぶこと」と呼ぶ。二項対立の「アポリア」(対立した事態の並存=出口のないこと)は「決定不可能」であるが、「真の決定は、決定不可能性」において行われる、と言う。そうした決定が、「二項対立が存在する根拠」を暴き出す。
・主体と客体が交錯やふれ合いの場は、「世界が崩落しないための要石」である。たんに客観的に「認知されるだけの世界は、非常にもろく」、懐疑論に陥る。「深淵の部分に寄って立つ」こと。芸術や人文学に共通している。
・二項対立は「行き方のコツ」のようなもの(「生の技法」(フーコー))であり、本来は「すべて自己であり、すべて他者である」。「身体的知覚」がそれを支える。

オートポイエーシス autopoiesis(河本英夫『岩波 哲学・思想事典』)

・神経生理学者マトゥラーナ、ヴァレラにより着想。社会学ルーマンが一般システム論に活用
1) システム理論:要素の集合を決定、それらの関係をマクロに記述
2) 自己組織システム:集合の「境界」の変動を記述
3) オートポイエーシス理論。そもそも「集合」そのものがどのように設定されたかを問題にする。システムが要素を作る⇔要素間の関係がシステムを作る。この循環関係が集合を設定。
・このようにシステムが作動を「継続」することによって、境界が定められていく。
・システムを継続させるための要素はどのようなものでもよく、それがシステムの本性(個性)を形づくる。
・問われているもの:行為とシステムの関係。動き続けるものと構造との関係。

これをたとえば、「身体=仮面(道具、衣装)=舞台」システムに応用できないだろうか。仮面が新たな内部と外部の境界を設定する。そこで「動き続ける」身体は、能舞台という場を形づくるさまざまな要素を利用しながら、物語のシステムを作動させていく。行為しながら、システムとしての物語を「制作(ポイエーシス)」していくこと。システムが作動していくなかで、システムの境界、身体の内部と外部の境界はたえず更新されていく。