廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

仮面の現象学

コメントより
ニヒリズム懐疑論に対する「足場」としての「おもて」。カオスの中に自と他を見出し、両者の交錯が根源的な基盤を立ち現れさせる。
・「おもひ」:意識して感じることではなく、人間性や意識を排して、カオスの中から方向付けられたもの。
・音楽に導かれて動く。そのとき「自己」が内面に属してはいない。ではどこに「自己」はある?
・どのようにして現代において「おもて」の感覚を取り戻すか。「述語となって主語とならない」
・「おもて」より、内面、自我、行為者が重視される。→ 「される存在」誰かから与えられたものとしての私。おもひは内的、面差しは外的に表出して、他者と交錯して曖昧な何かとなる。
・意識が流れる。「おもひ」は、意識的か、無意識的か。
・仮面が一回り小さいこと。→ 「仕掛けの露呈」「異化作用」(ブレヒト
・仮面=悪は西欧的?
・アニメーションと現代美術
西田幾多郎(1870-1945)の「述語の論理」
場所の論理(ブリタニカ小百科事典+哲学・思想事典)
西田幾多郎の哲学用語。述語の論理ともいう。西田の初期の哲学における純粋経験(「色を見、音を聞く刹那、未だ主も客もない」)や絶対意志という直観的概念を論理化するために見出された中期以後の概念。彼は自覚(直観と反省を統合するもの)を根本的な「働き」(「に於いてある」)と考えて,その底に「見るものなくして見るもの」を想定し,それを概念化して「場所」と呼んだ。=場所が場所自身を映すこと。場所が自己を限定して「我」が生まれる。「我は我ならずして我なり」
坂部恵『仮面の解釈学』についてのノート
坂部恵が仮面論において乗り越えようとしているのは、素顔(本質・内面・実在)/仮面(仮象・表面・模像)という二項対立である。このような二項対立をどのように乗り越えるか。
・この二項対立に対して、「本質なんてない」と言ってしまうのは簡単である。「すべてはシミュラークル(模像)だ」「すべてはシミュレーションだ」と言う立場がかつてあった(例。ボードリヤールポストモダンニヒリズム)。
・だが筆者はこのような考え方は、たんに二項対立の上下関係をひっくり返したものにすぎず、その意味では二項対立に乗っかった発想である。このような発想では二項対立は壊れないどころか、逆に強化されかねない。たとえば「本質なんてない」「自己なんてない」という発言は、それが覆い隠す本質や自己を逆に強く意識させてしまうのではないか。
・そのため坂部は、まず「おもて」という概念を出す。これは「素顔」でもそれを覆う「表面」でもないような、第三の顔のあり方である。それは素顔以上の力を持ち、いわば「主体(素顔)」を引きずり回す。「主体」なしに「述語」が一人歩きしているかのようである。「(それが)動く」「(それが)語る」「(それが)思考する」という具合である。
・だがこれはポストモダンのように、主体などはなく、フラットな表面だけがあるという考えではないだろう。むしろこれは主体の「変身」の運動そのものとも言えるからだ。「おもて」とは、主体と仮面がいわば二重であると同時にひとつであるような、奇妙な存在なのである。伝統的に「主体」と呼ばれていたものは、この二重体のひとつの側面と考えられる。同じく、たんなる表面としての仮面だけでもだめである。これはあくまで「おもて」に息を吹き込まれてこそ、私たちにリアリティをもって現れてくるからである。
・「二重であると同時にひとつであること」こうした矛盾した場においてこそ、二項対立とは関係のない次元で、「生命の流れ」としか言いようのないものが経験されるのではないか。
・能面が素顔を垣間見せていること、これはこの「二重性」のもつ「すきま」のようなものを垣間見せているのではないか。だがそれは空虚でも、わざとらしい仕掛けでもなく、むしろ上記の生命の流れの場を垣間見せているのではないでしょうか。。。。
・坂部はこれを「カオス」と呼んでいる。しかし「カオス」と言ってもそれは科学的に証明できるような存在ではない。そのようなものを想定したら、神秘主義に陥ってしまうからだ。坂部が語りたいのはむしろ、「カオス」から「かたち」が生まれる瞬間を捉えることである。混沌としたカオスでもなく、幾何学的な形でもない、「何かあるもの」が私たちに迫ってくること、こうした経験がもっとも重要なのだ。闇の中から浮かび上がる「かたちなきかたち」。もちろんそのあとにくっきりとした形が見えてきて、この経験は忘れられてしまうかもしれない。しかしながら、「このかたちなきかたち」が私たちの身体に迫ってきて、いわば身体の中に入り込んでくるような感覚は、私たちの身体に刻み込まれているのだ。
・竹内敏晴と共に演者のほうを考えるならば、仮面を「掛ける」演者は、はじめは意志をもった主体であり、仮面はそれを隠すものである。しかし仮面をかけて舞い始めるうちに、主体は変身し、どちらが素顔なのか、仮面なのかわからない境地に達する。
・「おもひ」:そんななか、たとえば演者が涙を流すポーズをするとき、通常の「思考」とは異なった、「おもひ」が仮面をかけた身体に宿るのだ。これが始元的自己のようなものに違いない。これは内面や脳内の動きではなく、あくまで仮面をかけた身体を注視する観客だけに見えてくる「見えないもの」ではないだろうか。。。。
・「おもみ」:またそのとき演者は、心と身体の対立を越えた次元で、みずからの身体の「おもみ」を感じるのではないか。これは重力感覚に近いが、それよりは、「自分の身体がここにある」という根源的な感覚である。ここにある身体のかけがえのなさ、それこそが「おもみ」なのである。
・「おもざし」:「まなざし」「視線」はけっしてまじわらないとサルトルは言った。まなざしは他者を石に変え、「対象」に変える。しかしおもざしは他者を対象としてみるのではなく、他者と共に、他者の「おもざし」と共鳴しながら、他者を見る。もちろん他者はあくまで他者であり、自他が融合すればよいというものでもない。それらは融合しないが、つかのまでも重なり合うのだ。むしろ「おもざし」によって、他者もまた新たな存在として現れ直してくるのではないだろうか。

○ どのようにして現代においてこのような感覚を取り戻すか?
・自分を取り巻くすべての環境(人、物、建築)の「あたりまえさ」を「括弧に入れる」。それが「真実だ」「現実だ」という信念を停止させる。(現象学的還元)
・そのときいわば何も見えない、何も感じられない、という状態が生まれる。
・そのカオスの中から、家族や友人のちょっとした仕草が心と体に触知されることはないか。自分のいる場所が「居たたまれない」と感じられていたのに、部屋の片隅にどこか自分の身体の「おもみ」を預けることができるような場所を作り出すことはできないか。そこに自分の「おもひ」を宿らせることはできないか。そのときあなたの顔は「おもざし」になっているのだ。そこから出発して、他者との新しい関係性を創出すること。

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「離見の見」「目前心後」
・客観的に自分を見直す、ということではない。
・自分の後ろ姿を見ること。前と後ろ、おもてとうらて、自己と他者の相互変換。
・自我を外へと超出させるこ

まとめ:メルロ=ポンティの「可逆性(リヴァーシビリティ)」の考えの応用として。。
マグリット(1898-1967)の作品との共鳴。