廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

デカルトとメルロ=ポンティ

ここまでの段落では、
・イメージの認識が身体の運動に結び付いていること
・見る者と見えるものの可逆性、交差点に、人間の身体はある(76)
・視覚ものに取り巻かれ、そのなかで生起する(73)
・「身体の謎」:物と身体は同じ生地、視覚は物の中で起こる、光、色、奥行は、身体の中にこだまを呼び覚まし、身体はそれを迎え入れる(77)
・「絵に即して、絵と共に見る」視線(79)
・部分的なのに、世界全体を現す完全なもの。見るとは「離れて持つ」こと 86
・見えないものを見る存在にする。「存在」への通路(87)
・個別の世界が、その場で「共通世界」につながる。87
・山そのものが、自分を見させる。山がまさに山となる手段(光、照明、影、反射、色)=亡霊的なもの。
・<夜警>の空間性。亡霊を解き放つ。
・「森に見られる」
・鏡の例。鏡の中と外で、同時に「感じる」こと
・絵画は肉的本質からなる夢想的世界、無言のままに意味する力をもった実効的類似(101)

III.
デカルトメルロ=ポンティ
デカルトの「古典的存在論」:亡霊の払い除け。
・見えるものに憑依せず、みずからのモデルで見えるものを再構築
・知覚に寄りそわない。「眼鏡」や「望遠鏡」の発明のためのみ
・遠隔作用なし。
・ボールの跳ね返りのような現実的作用としての光
・反映と物の「類似」。「物そのもの」—「光線」の規則的関係(因果関係)
・物と鏡像の類似は、「思考」が判断するもの。デカルト主義者は鏡の中に自分を見ることはない。そのように思考しているだけである。
・思考のために、銅版画において円は楕円へ変形されなければならない。「類似」していない。そのように「概念的に把握」されているだけである。図像は「機会」にすぎない。
・要するに、図像は「読解すべきテクスト」である。記号である。
・「類似」=シミュラークルはない。
・「類似は知覚の結果であって、知覚を動かす隠れた力」ではない。
・絵画は実物がないのに実物が見えているとおりに見させる技巧(116)奥行は第三の次元。

デカルトの功績:空間の理念化=空間の解法。明晰で操作可能で同質的な存在。思考は「(身体的)視点」を持たない。厚みなし。物同士の隠し合いや奥行は、物の属性ではない。
・これが遠近法の技法(人工的遠近法)。画家たちにとっては、むしろ絵画に複数の道を開くべきものなのに、デカルトはそれを閉じてしまった。

→ メルロ=ポンティ。知覚を動かす隠れた力としての「類似」。(111)
・イメージ:不在のものを現前させる=存在の「核心」へ向かう通路。アナロジーから成る夢想的世界。
・「概念なき普遍性」「物への概念なき入口」(114)
・奥行(117)。「私は奥行を見ているのに、奥行は見えるものではない。見たとしたらそれはたんなる「横幅」になってしまう。
「人はつねに奥行の手前にいるか、さもなくば彼方にいるのだ」(118)

デカルトはじつは視覚の謎を垣間見ていたが、それを閉じてしまった。
「視覚は身体のなかでおこることを<機会>に生まれる」(128)
「視覚の核心には、外部からの侵入によってはもたらせえない重力、依存がある」(128-9)。それは「自然によって設定されている」。「受動性の神秘」(129)
・魂は身体によって思考する。行使することによってのみ働く視覚。魂と身体の合成体。Cf. 盲点の比喩(『見えるものと見えないもの』)
→ しかしデカルトはこの「深淵」を閉じてしまう。そういう視覚は実践し、行使し、生きることはできる(usage de la vie)が、それは真理には関係がない。神のごとき「深淵」。そこに立ち止まることはしない。「形而上学に関らないですまさせてくれる形而上学」。「私たちの思考を切り裂くことなく私たちの思考を切り開く」(科学と哲学=神学とのバランス)。

メルロ=ポンティの呼びかけ。こうしてデカルトは、神のごとき深淵(奥行、色合い、心身統合の次元などの「底なしの存在」)を垣間見つつ、その深淵を「概念的には把握できない」として、その瞬間に閉じてしまう。Cf. デリダ「悪霊の仮説」についてのフーコーとの論争。
デカルト以後、バランスは科学に傾く。そして空間は「技術化」されてしまう。
私たちの課題、現代画家の課題は、科学と哲学の間に新たなバランスを作り出すことである。
→ 空間性のゼロ点としての身体(心身複合体)に立ち返ること。内側から空間を体験すること。視覚に視覚以上の力を与えること。わずかなインクで、森や荒らしを見せる。「空間や光に語らせること」(141)。果てしのない問い。視覚そのものが「問い」である。→ 絵画の中で考える(142)

注意点:メルロ=ポンティデカルトを否定しているのではない。科学的空間認識を基礎付けるために、彼が垣間見ていた「深淵」(形而上学的なもの)をいわばやりすごす。そのことによって、たんに形而上学の彼方に科学を置くのではなく、形而上学を保持しながら、それを無効化してしまう。

IV.
・作品の意味について。作品の多様な意味=作品自身が変身したもの。

[34] 奥行
「物がたがいを隠蔽し合うというまさにその理由によって、私はそれらの物を各々の場所にあるがままに見る」(149)
「各々の物がその場所にあるというまさにその理由によって、物同士が私の眼差しの前で競い合う」
オーヴァーラップによる外在性、自立における依存。

このような奥行は第一の次元。「全体的な場所性の経験」「物がそこにあるというヴォリューム感(量感性)」(151)セザンヌ「色と色がぶつかりあって物たちが揺れ動きはじめ、不安定性の中で転調し始める」(152-153)
・空間とその内容物を分けることはできない。