『からだ・こころ・生命』1−3:「私的間主観性」
コメントより
・そもそも心と体の関係はなぜ問題になるのか。
・なぜひとは「他者の心」を前提とするか、一般にこころが隠されているとされているのはなぜか。
・・自分の理解している範囲でしか相手を知覚できない、ということか
・親しい他者の奇妙な振る舞い⇔共有するコンテクスト
・自己と他者との交流の中に立ち現れてくる現象、としての心
・吉増剛造:自分自身が境界になりながら「相即」という活動を行う
・ひとは自分の心の中に他者の心のレプリカを創造することで、不透明であるはずの他者のこころはしだいに半透明になる
・自己と他者との絡み合う創発性は、ある程度の時間の幅を必要とする。
前回の議論の問い
彼らの顔付き、仕草、言葉に対しては、〔私たちの〕思考が介入する隙もなく、私たちの顔付きや仕草や言葉が応答する。──私たちは彼らの言葉が私たちに到達する以前に、彼らに対してそれを突き返してしまうことがある(メルロ=ポンティ)
木村敏は、自己と他者との関係を「公共的間主観性」と「私的間主観性」に分けている。「私的間主観性」とは、メルロ=ポンティが「間身体性」と呼んだものに近い。間身体性とは
・たんに自己と他者が身体的に共鳴する、といったことではない。
・それが現れるのは、自己と他者が絡み合い、たがいがたがいの意図を読みあい、両者の関係が逆転してしまうような関係。自己が他者となり、他者が自己となる関係。
(参考)フーコーはこのような関係のことを、「権力諸関係」と呼んだ。それは誘惑、そそのかし、駆け引き、ゲーム性、逆転などを特徴とする。これを彼は「戦略的」な関係と呼んだ。→ 権力は支配、被支配の関係ではなく、「否定的」でもない。
・こうした関係を経てこそ、自己と他者に「生産的」な関係が生じる。さらには、「間主観的」な関係にもつながる。共同的な世界は、ほうっておけばそこにあるような平和的な世界ではなく、「行為」(ここでは肉体的な言葉のかわしあい)の関係によって作り出されるものでもある。
問い:木村敏は本書ではこのような関係について語っていないが、精神科医として病理学的な事例や芸術の例で語っていた。
・他者との「タイミング」がとれない患者の例(「タイミングと自己」)。微積分的な間の取り合い。
・自己の身体がじぶんのものと感じられない、物の実在感がない。
・筒抜け体験、作為体験
・合奏における「間」の取り合い。
・テレパシー。身体のない存在へのあこがれ。
「人間は彼が個人としての人間であるに先だって、<そのつどすでに>人と人との間に立っている」(先験的完了態)
「私が私の自己の中に絶対の他を見るということは、逆に私が絶対の他を見ることによって、私が私自身を見るといふことを意味し、かかる意味においてわれわれの個人的自覚というものが生じるのである」「私の底に汝があり、汝の底に私がある。」「自己が自己自身の底に自己の根柢として絶対の他を見るといふことによって、自己が他の内に没し去る。之とともに汝もまたこの他において汝自身を失わなければならない。私はこの他において汝の呼び声を、汝はこの他において私の呼び声を聞く」(西田幾多郎)
・ノエシス的身体(「こと」としての身体)とノエマ的身体(「もの」としての身体)cf. 木村敏「身体と自己」、『分裂病の現象学』(ちくま学芸文庫)所収。
参考。p. 28
フッサール『デカルト的省察』第5省察(岩波文庫)
・他者は現前せず、付帯的にのみ現前する。→ メルロ=ポンティはこれを「斜交いの現前」と呼んでいる。
・まず他者は「もう一人の自己(Alter Ego/分身、腹心)」として現れる。
・ひとは他者の身体を、自己の身体と「類比的」に捉える。「受動的綜合」→ メルロ=ポンティはこれを合わせ鏡のような関係にたとえている。
・この「もう一人の自己=分身」はどのように「他者」となるのか?
フッサール:自己は他者の身体にみずからを「移し入れる/感情移入(Einführung)。「あたかも他者のいるところに自分がいるように」。
メルロ=ポンティ:だがこのような「移し入れ」が可能になるためには、「暗黙のうちに」、私的間主観性の奥行において、自己と他者が絡み合っていることが必要なのではないか。移し入れは知的操作ではない。
◎絡み合っているとは、おたがいがおたがいの領域に感覚的に滑り込んでいることを示している。
→ 他者が「出現」するとき、自分自身が自分自身から外に出る/自分自身の中心が「ぶれ」る。自分自身のなかに、「他なるもの」が迎え入れられている。そのときひとは、他者を「対象」として見ていない。しかし、他者と真に出会うということはそういうことなのではないだろうか。
========================
参考引用:
〔他者が私の目を見るとき〕もはや見るものとしてはまなざししかなく、見る者と見られるものは正確に置き換え可能であり、二つのまなざしはお互いによって身動きが取れなくなり、互いに目をそらしたり、区別することはどうしてもできない。事物はなくなり、どちらもおのれの分身としか関係を持たないからだ(中略)。反映の反映は原則として無限につづくはずだが、 視覚においては、二つのまなざしから発した闇がぴったりと嵌まり合い、もはや固有の目的論を持つ二つの意識ではなく、二つのまなざしがお互いの中にあって、それが世界に唯一のものとなる。これは欲望が二つの「思考」を両者のあいだの燃えるような表面に追いやるからであり、そこで二つの思考はそれらにとって同一であるような完成を追求する。感覚的な世界がすべての人に所属しているのと同じように(メルロ=ポンティ『シーニュ1』序文、Signes, 31-32)
デカルト『省察』(中公クラシックス)
「しかし、たまたま私はいま、通りを行く人々を窓ごしにながめる。そして、蜜蝋の場合と同じく習慣によって、人間そのものを見るという。しかし私が見るのは、帽子と衣服だけではないか、その下には自動機械が隠れているかもしれないではないか。けれども私は、それは人間である、と判断している。同じように私は、目で見るのだと思っていたものをも、私の精神のうちにある判断の能力のみによって理解しているわけなのである。」