廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『『眼と精神』11月26日

コメントより
・「私たちは世界そのものを見る」「私たちは、(あくまで)私たちが見ているもの(しか)見ていない」= このあいだの「裂け目」
ナルシシズムによって自分が浮き彫りになる。それは浮き彫りでしかないか?→ 「内感」「受動的綜合」
メルロ=ポンティ的他者を激しくすること。
・視覚がつまみ上げた景色をキャンバスに落としたときの歪み=「感覚」としての視覚。

補足
・「そこにある谺を迎え入れる」というイメージ。物の「素朴実在論」でも、「観念論」でもないけれど、どちらをも含むようなものとして考え出された比喩。「そこ」にある何かは、客観的な対象でも、主観的なイメージでもない(ラスコーの絵画が「ある」場所)
。→ 同じことをメルロ=ポンティは「他者のこころ」についても言う。(1)他者とは、「自分でないもの」として「他者性」を備えている(2)しかし、他者が他者であるのは、私が私の「こころ」を持っているように、自分のこころを持っているから。その意味で、他者は、私と同じようなものであるから他者なのであり、その意味で「もうひとりの自分」である。(3)そのこころは、他者の頭の中にも、私の中にもない。他者の身体の「すこしむこうがわ、すこしこちらがわにある」。その他者と「つながる」ためには、他者のちょっとした表情、しぐさ、眼の動き、声の調子などが、私にいわば取り込まれるような感じがするときではないか。それをメルロ=ポンティは他者の「スタイル」と呼ぶ。他者のスタイルを迎え入れること。それが他者経験の萌芽である。
・[12] デッサンは「外部の内部であり、内部の外部である」。それを可能にするのは「感覚の二重性」である。「想像的なもの(imaginaire)」の「準現前」「準迫真性(差し迫り)」。

・「想像的なもの」は「現実的なもの」の「果肉」「裏側の肉」。
ただしこれは身体を媒介とする有限なもの。「現実的なものの想像的なテクスチャー」。
→ サルトルは「想像力」とは、「不在の対象」を目指すこと、その「準現前」を経験することだと言った。そのとき意識は「無化」という作用を行う」。これに対し、メルロ=ポンティにとって、それが「肉」と呼ばれるのは、イメージは「無」や「無化」より豊かな「見えないもの」であるからである。それは現実と私たちを「媒介」し、現実を「見えるようにしてくれる」が、それ自体は「見えない肉」なのだ。この「見えないもの」が、私たちの世界の経験をひそかに織りなしているテクスチャーなのである。
→ 応用:社会的現実の「想像的テクスチャー」とは?

[13]
ある意味「第三の眼」(千里眼、直観像)のようなものはあり、私たちは見ている以上のものを見る。他方、「視覚は見ることによってしか学び得ない」。

「眼」=「自分で自分を動かす道具」「自分で自分の目的を発明する手段」。=世界がもたらす「衝撃」への「手」による応答が絵画。=「可視性の謎」(86)

[14]
「絵画の世界は眼に見える世界であり、見えるもの以上の何ものでもなく、部分的でしかないのに完全」=「ほとんど狂気の世界」。(86)

・見るとは「離れて持つこと」。
[15] 同一のものが世界のただなかの「そこ」にあると同時に、視覚のただなかの「ここ」にもある。「同一」とは?「実効的類似性」とは。
◎ 山そのものの「存在」がみずからを見せる。画家は、山が山となるプロセスを、色、照明、影、反射、色を通して見さしめる。
◎ <夜警>の例:ふだんは見えないものが、おのずからなんらかの見えないシステムを作り、そこにおいて、「何か」が現れてくるような空間。それは「人間以前の土台」のようなもの。