廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究(10/29) : シモンドンとフーコーの権力論

ジルベール・シモンドンの技術論『技術的対象の存在様態について』。シモンドンはフランスの技術史家。ドゥルーズ哲学、ガタリの「機械」論、<マルティテュード>グループ、スティグレールのメディア論などに大きな影響を与えた。
・ 技術は「有用な目的」の道具でもなく、オートメーションでもない。技術的対象の本質は「かたちが生成すること」(in-formation)にある。機械は自動的なものではなく、偶然の「情報」を組み込むことができ、人間による「発明」の余地を持っている。機械=オートメーションと考えるのは経済中心主義である(航空機の開発が自動車に応用)。抽象機械から凝縮した機械へのプロセス。各要素が、あたかも生物のように補い合う機械の製作プロセス。発明の瞬間に注目。機械は生物のように環境に適応するポテンシャルを持つ。人間と機械のカップリングも可能。情報とは「出来事」である。人間と機械との能動的関係である。発明を拡散させる。機械は開かれた社会を実現。cf. http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/documents/simondon2.pdf
フーコーもまた「生の技法(テクニック)」について語る。技法とはヘテロトピアを切り開くものではないのか。。。

フーコーにおける規範概念。
①『監獄の誕生』
1) norm : 規範、水準、平均。権力はnormalisationするもの。ある水準や平均からの逸脱を作り出すことによって、より細やかな「訓練=規律(discipline)」を可能にする。
・ 「逸脱はなくさなければならない」しかし「逸脱がなければ権力は作動し続けることができない」。
・ つねに新たに逸脱を生産し、「矯正されるべきもの」「消えてなくなるべき」ものとして、新たに作り出され続けられなければならない。例)汚辱のクラス(『監獄の誕生』pp. 185-186.)
2) normは主体に、外から課せられるものではない。むしろ主体のひとつひとつの行為に「内在」しているものである。例)両生類が陸に上がって、歩くためのnormを次第次第に学んでいくこと。エクササイズの過程。自己に対するたえざる働きかけ。「振る舞いを導く」(conduire la conduite)。
3) normと空間との関係? 細分化される空間。等質な空間ではなく、異質性がつねに作り出される空間の配分。→ 情報(「知」)のストック。
4) 「主体」との関係:権力—知に対して、主体はみずからを「逸脱者」「狂気の主体」「性的主体」として認めるようになる。「自己という鏡像=分身」にたえず問いかけられる主体。

② 権力への抵抗?『性の歴史 I──知への意志』フーコーの回答はあいまいに思える。
・ 権力が至るところにあるのと相関して、抵抗点も至るところにある。「権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。抵抗点は、権力にとって、勝負の相手、標的、支え、捕獲のための突出部」(123)
・ 「そしておそらく、これら抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ、いささか、国家が権力の関係の制度的統合の上に成り立っているように」(124)???
・ 「学ぶ側の自己創出的な自己変容」(田中智志『教育思想のフーコー』)
③「主体と権力」
・権力は自由の放棄、権利移譲、委任(社会契約論)ではない。
・権力は他者に働きかけるのではなく、他者の「現実・未来の行動」に働きかける。そうした他者の反応(抵抗)も権力関係の一部である。(暴力と同意でもない)。
・権力は他者の「行為」を扇動したり、誘い込んだり、操作したりする。conduire la conduit (conduct the conduct), se conduire (conduct oneself)=振る舞う。
・統治性(gouvernementalité).たとえばキリスト教の司祭は、羊飼いのように、ひとつひとつの羊に目を配りつつ、羊の「群れ」を統治する。全体的であると同時に個人的な「見張り」。
・「権力はひとが自由であるときにかぎって行使される」(26)権力と自由は切り離せない。
・自発的隷属論ではない。統治と被統治のゲーム、闘争(アゴーン)。