廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究V 4月20日:幻影肢という現象

幻影肢という「現象」
・客観的身体とは「ずれた」もう一つの身体。この身体は「生理学的」にも「心理的」にも完全には説明できません。メルロ=ポンティは、この現象を「実存の両義性」と呼び、それを積極的に説明しようとしています。
・ 問題1:「実存」の「主体」は誰か? = メルロ=ポンティはこれを「一人称」でも「三人称」でもないものとして「ひと」と呼びます。「ひと」は身体を通して、世界に「住み込んでいる」のです。
・ この一人称と二人称でもない「ひと」、その人称をメルロ=ポンティは「非人称」と呼びます。この「非人称」が「多人称」(間主観的)でもあることは次第に確認していきたいと思います。
・ 問題2:しかしこの非人称な身体はどこに「ある」のでしょうか。私たちはこの「非人称」な身体をいつも意識しているわけではない。それはどこかにいつも「ある」のだが、それが意識されるのはひとつの「出来事」としてです。それは私たちが「取り上げ直すこと」ではじめて「存在させられる」のです。
・ 問題3:メルロ=ポンティはこの非人称の身体の「あり方」つまり「存在様態」を追求します。それはどのようなものでしょうか。→ 存在でも不在でもない、身体の志向性。
メルロ=ポンティ哲学の特徴:このような両義的な実存を「時間性」に集約させていくこと。時間こそが主体。
「腕の幻影肢とは、抑圧された経験と同じく、まだ過去になりきってしまわない古い現在だ」(154)
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1) 幻影肢(p. 138-140)
・ 生理学と心理学、末梢説と中枢説の「あいだ」
生理学的に説明できない要素(三人称的)→心理的な情動、記憶(一人称的)?→しかし幻影肢は「物質的」に消去しうる。
・ 混合説:しかし「空間的」な生理学的事実と、純粋に精神的なものとの「混合」はありえないのでは?
2) 実存(p. 141-144)
・ 動物の「代償行為」の例:環境の「問題」に回答を与えるように、新しい運動を創出すること(cf. 『行動の構造』邦訳六九頁以下。
 「動物は同一の世界に存在し続けようとする」(141)
 「動物は自分自身で自分の環境の規範(norm)を計画し、自分自身で自分の死活の諸項を措定する」(141)
・ 「世界内存在」(être-au-monde)として実存するとは??

  • 客観的知識ではない
  • 動物のまわりの「状況」は、「開かれた」状況。メロディの比喩。
  • これはたんなる「反射」の総和ではないか、という批判に対する応答。
  • 「反射」概念の批判。盲目的ではなく、「行動的環境」の「意味(sens)」への反応。

反射=客観的な諸刺激の結果ではなく、むしろ、「そちらに振り向き」、それらのひとつひとつに「意味」を付与する。
・ 「前客観的な観点(邦訳「視界」)」「実存衝動のある種のエネルギー」(144)
・ 「世界内存在は第三者的でも、思惟(コギタティオ)でもないが、それゆえに「心的なもの」と「生理的なもの」を結び付ける。

3 両義性
・ ポイント:現前と不在の間の中間者を認めること。捉えがたいリアリティ。
・ 「疾病を失認する人がその欠損から目をそむけることができるのは、彼がその欠損に出会いそうになる場所はどこかをあらかじめ知っているから」(146)
・ 「腕の幻影肢は、腕の表象ではなく、ある腕の両価的な現前である」(いない友のことを考えること)。
・ 「欠損の拒否とは、一つの世界への我々の内属の裏面にほかならない」(147)

4. 私の身体は、世界の軸である。
「病人は自分の損傷を否認するかぎりでその損傷を知っており、知っているまさにそのかぎりでそれを否認する」(148)。
「習慣的身体」と「現勢的actuel」身体(148)
「ひと」と非人称的な身体。
メルロ=ポンティのリハビリティーションへの応用:カルロ・ペルフェッティの認知運動療法
・ 「反射」説を「デカルト的」「機械論的」と批判
・ 「知覚する動物」としての身体は、運動において「実存」
・ 自分の身体への「気づき」という出来事にこだわること。→ そのとき「自己意識」が生じるとともに、「他者」へ身体が開かれる。
・ そのためさまざまな「道具」を使うことに注目。「道具」とは何か??
参考:宮本省三『リハビリテーション身体論』(青土社)、河本英夫オートポイエーシスの拡張』『システム現象学

さらなる問題:こうして幻影肢は、存在でも不在ではないが、私たちが自分の身体に「問いかけ」るとき、ある種の過剰なものとして「垣間見える」「出来事」として「斜めに」経験される。この経験に問いかけることで「経験」そのものを変容させていくのが芸術ではないか。