つぶやき
・ 自己が生まれる場において、自己は他者の人質となる=自己と他者たちは「同時に生起する」を実感すること。生まれようとする自己に対して、他者たちは現前しない(レヴィナス「他者の痕跡」)。
・ 事実として歓待はつねにすでに「条件付き」である。無条件的な歓待とは、条件付きの法の「システム」をずらし、ほっと息をつけるような「スペース」「隙間」(三脇泰生)を作り出してくれるものなのではないか。学校において、病院において、監獄において、このようなスペース創出の試みはどのようにして可能なのだろうか。
・ 主人と客人の逆転=逆転そのものよりも、むしろ主人であるか客人であるか、自分でもわけのわからない状態、主人であろうと客体であろうとどちらでもいいような「瞬間なき瞬間」があるのではないか。
・ 歓待とは「内部の内部」に外部を呼び込むこと。そのとき「主人」は「外部の外部」へと放り出されるようにして連結する。「内部の内部」に入り込んだ客人は、後から来たのに、すでに前からいた幽霊屋敷の「亡霊」のごとくそこに居場所を見つける。→ デリダなりの新たな「インターナショナル」の提案として理解すべきであろう。ヘイトスピーチなどやらせておけばよい。絶対的歓待へのアレルギーは、いずれ自滅する。私達はいわば追い出される「べき」なのだ、外での絆なき絆を求めて。とりわけネットの外を求めて、
・ 無条件の歓待はきつい⇒ しかし、レヴィナスでなくても、ひとは社会において、一度は「無条件の歓待」を「受苦」として蒙ることがあるのではないか。無条件の歓待という「経験」(経験とはいえないような強い経験)を蒙った者たちは、どうすればよいか。⇒ 「無条件な歓待はよくない」「無条件な歓待を受けた者の共同体?」(デリダの「共同体嫌い」)「条件付きの歓待の改善に生かす?」「条件の連鎖に介入することによって、隙間を挟み込み、その連鎖を変質させてしまう」
・絶対的歓待を語ることはさまざまなアレルギーを生み出す。それがまた条件付き歓待を正当化する。個人のレベルにおいても、集団のレベルにおいても。これは不可避で、不快なものである。この危険を引き受けたことにおいて、デリダは擁護されるべきであろう。問題は、そうしたアレルギーを持った人とは対話不可能であることである。