デリダの贈与論(『時間を与える』(未訳)cf. 『他者の言語』(法政大学出版局)
先行説:
・モースの贈与論。贈与の持つ神秘的な力が社会的紐帯となっていること
・ レヴィ=ストロースの読解。贈与は「円環的な交換のシステム」をかたちづくる。cf. 『親族の基本構造』交差いとことの結婚=女性の循環。
◯ デリダは、これでは円環(社会構造)のシステムの中に、贈与が組み込まれてしまうと考える。そうするとモースが「神秘的な力」と呼んだものも、たんなる「心理学的なもの」(気持ち)になってしまう。これだけだと社会レベルの説明にはならないと言われてしまう。
→ 円環には取り込まれないような、あるいは、円環が閉じてしまう以前に、閉鎖を妨げるようなものとして「贈与の力」を語ることはできないだろうか。
・デリダ:贈与が可能だとしたら、その円環に「ある侵入」「裂け目」が起きてしまっていなければならない。贈与は、時間を中断する「瞬間」(「現在」を引き裂く瞬間)gift=贈り物・毒
・「限界的に言って、贈与としての贈与は贈与として現れてはならないだろう。贈与される人にも、する人にも」。贈与を認知したり、意識したり、記憶してはならない。⇒ 贈与は贈与として現前しない限り贈与。とすると贈与という出来事は、「対象」(モノでも、行為でも)ではない。
1) 贈与と忘却。贈与はそれがなされた瞬間に、少なくとも意識の中では、忘れられなければならない。忘れられる=対象にならないこと。対象になってしまうと「お返し」のメカニズムが発動し、円環が成立してしまう。
2) 贈与は「無意識」(フロイト)的なもの?⇒ デリダ。ある程度はそうだ。しかし、フロイトの無意識もまた「抑圧されたものの回帰」という時間的な円環を形作ってしまう危険がある。
3) 贈与する者の「意図」においても、それは贈与として、意識されてはならない。「善意」が背後にあると、そこに「見返りの要求」が介入してしまう。
4) だから、贈与者の意図、被贈与者の認知以前に、「贈与がある(Es gibt=それは与える)」という出来事が生じている。
5) 贈与と(暴)力。「暴力は円環の内ないしは外部において、円環を反復したり、中断したりする」。円環を中断しながら反復する。円環から逸脱しながら新たな円環を作る。
6) 贈与は「現れない」。けれども「どこか」に「痕跡」(みずからを消し去る痕跡)を残し、残り続ける。しかしながら、その「意味」(意識的な意味=意図、無意識的な意味)は解読できない。それは「秘密の暗号」のようなものとして残り続けるのだ。
このようなものとして「残る」ためにこそ、贈与は忘れられなければならない。
7)贈与は「持っていないものを与える」と同時に「何かを保持させる/何かに保持させる」
コメント 贈与とは、絶えざる創造的な脱中心化を迫るなにかしら過剰なもの。
cf. http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/documents/derridainstitution.pdf
つけたし
贈与の痕跡が書き込まれる「場」を肯定すること、これがデリダの目的である。それが「コーラ」の問題とつながるのであろう。そこからこの痕跡を真に制度に書き込んでいくプロセスを具体的に構想すること、このことが私達に求められている。http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1018/