廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

「線(ラインズ)」をめぐるつぶやきまとめ

ガタリの「斜め性」は、じつは斜めの明確な線ではなく(それは水平でも垂直でもあるから)、水平でも垂直でもない「くねくねした(sinueux)」線であるのかも。また切断でも接続でもないというのは、この線がたえず自らに帰りつつ、円環にもならずに支線を延ばしていく運動のことかもしれない。構造主義的なタームからガタリ(そしておそらくデリダも)をバルトとメルロ=ポンティによって解放すること。
いずれにせよそれは、言語的次元からの「隔たり」として、みずからを隠しつつ働く運動であるが、端的に身体的に「生きられた」ものとも言えない。というよりは誰も所有しない身体の運動であり、じつは隠されてもおらず、それを見る主体を召喚するような運動である。
・蛇行線。目に見える線それ自体はない。それは見えるものの間にあり、物によって要求されるが、物そのものでもない。線を解放すること。その構成能力を復権すること。それが「見えるようにする」(クレー)。
・だがそれは(起源ならざる)「端緒」との関係を常に保ちつつ「冒険」する。「線の歴史」。すなわち、それは蛇行するだけではなく、空間に意味を与えるような基準軸を引き続けるものでもあることも重要であろう(『眼と精神』超訳)。線を制度化するとはそういうことだ。
・「物によって要求される線」とは何か。それは私たちがつねに見ているものでありながら見えないもの、そしてそれを「見た」とき、「見る者」そのものが変容して、そのまえに釘付けになることである。絶対的歓待に対するアレルギーはそのとき氷解するはずだ。その「見る者」は「自己」ではなく、「ひと」であり、同じ物、同じ世界を見る者と共有可能であるがゆえに、個人的でも集団的でもあるのだ。「見ることを学ぶこと」、メルロ=ポンティのこの言葉は、こうした集団的営為にも繫がるのだろう。