廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

代補 四月三〇日ぶんを今さら

代補(プリント「代補」「グラマトロジーについて(下)」参照。
「代補」(supplément/supply)補うこと、埋め合わせること=とって代わること。
代補の例:音声言語を補う文字が、かえって記憶力を失わせ、音声言語にとってかわり、危険なものと見なされること。音声言語という「自然」で身体的なものが、人工的な技術に侵蝕されてしまうことを「危険」とみなすこと。デリダはこれを「現前の形而上学」「音声中心主義」「表音文字中心主義」と呼ぶ
プラトンパイドロス』:真理(ロゴス)の意味は、話し言葉において生き生きと現前する。
書かれた言葉は学ぶことを忘れさせてしまう。「物知りが語る、生命を持ち、魂を持った言葉の影」「誰であろうとおかまいなしにめぐり歩く」「父親の助けのない私生児」⇒文字言語は「散種」される。
他の例)デリダ『グラマトロジーについて』の例。「危険な代補」。身体とその補助、母性愛の「乳母」や「教育」による補い、植物とその「栽培」、自慰。(ジャン=ジャック・ルソー
代補とは
・ 一方で、自然なものは充実したもの、欠けたものをもつはずがないもの、正常なものである「はず」「べき」だとみなされている。
・ だが、事実として、それはつねに何か人工的なものによって補われている。
・ この「補い」はたんなる「埋め合わせ」として、自然の充実を回復する「はず」だけのはずだが、それはなにか「余計なもの」「過剰なもの」として残り、自然にとって代わりかねない「危険」なものとみなされ、貶められる。にもかかわらずそれは「亡霊」(現れないけれど、どこかにあるもの)のように「付き纏い」続ける。だとすると、このような「亡霊」は、自然や自己より古く、むしろその中に初めからあるようなものなのではないか?

デリダによる「脱構築」:
・ 自然と人工、充実と欠如、不足と過剰、正常と異常の対立そのものを掘り崩していくためにどうするか?? 
・ 「自然的なものは、構造的に非自然的なもの(外部、技術、他者)を孕んでいる」。自然と人工の区別は自明ではなく、「決定不可能」。

デリダ脱構築:1)<正常なもの、自然なもの、主流なもの、現前するもの>と、<異常なもの、人工的なもの、二次的なもの、現前しないもの>の区別を取り上げる。
・ 2)後者が「つねにすでに」前者を蝕んでいる、前者に「感染」していることを指摘する。こうした対立は自明ではなく、「決定不可能である」
・ 3)そのうえで「自然でも人工でもなく」「正常でも異常でもない」何かあるものを発明する。それは「自然以前」であると同時に「人工以上」な「何か現れないもの」である。このようなものを発明するのがデリダ脱構築

補足:このような考え方は、とくにマルクス主義などからは、革命的な主体を解体してしまい、「決定不可能な」状況にとどまることをうながすと批判された。そこで九〇年代になるとデリダは、「決定不可能性における決断」と「正義」をむすびつける。ただしこの「決断」は「他者の決断」「他者からの決断」と呼ばれる。他者は自己以前に自己の内にいるとともに、未来から私たちを不意打ちするようなものだからである。このような決断を彼は「責任=応答可能性」と呼ぶのである。