廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

2013年度「セザンヌの懐疑」(3)

セザンヌの懐疑」

・ p. 21 : 「モチーフ」と「世界の一分(一瞬)(une minute de monde)」
モチーフ:セザンヌはまず、身体全体で風景全体を受け止めることから始める(世界に見られること)→ モチーフを摑む→ セザンヌはたんなる「自然に帰れ」ではなく、科学や技法や伝統(ルーブル美術館)を否定しない。
科学を忘れて、ただし科学を使って、「風景(ある種の秩序)が生まれ出る瞬間(=世界が過ぎ去る瞬間)」を捉え、自分も風景と共に「芽生える」=「知覚主体」は「風景」とともに──あるいはわずかに遅れて──生まれる。

「風景は私の中で思考され、私は風景の意識なのだ」(22)=模倣(ミメーシス)でもなく、本能でも文化でもない。それは「表現である」→ 「現れつつある全体的世界の様相」→ これが「主観的なもの」にとどまらず、他者がセザンヌのように世界を見ることをみずから教え、他者とも共有される。
→ 「文化」的な「獲得物」として制度化される。

「ひとは無限の可能性を持っている」とは誰もが言うことである。他方、「自由」かつ「自発的」におこなったと思った「選択」が、後から考えてみれば、さまざまな条件によって実は「選ばされた」ものであるかのように思われるときもあるだろう(cf. マルクス主義の経済決定論)。メルロ=ポンティが「表現」とよび「自由」と呼ぶものは、「無からのex nihilo創造」のような自由でもなく、また全面的な決定論でもない。それは「両義的」である。セザンヌの作品はその両義性の結晶化である。それは「世界の現れ=呼びかけ」と「セザンヌによる応答」との交差点に結晶化するのである。

・ p. 24 : 表現(expression)の哲学。「世界の表現」=「自己の表現」
「最初の人間が語ったように語り、誰一人描いたことがないように描く」:最初の言葉が持つ困難(25)
・ 作品が成功すれば、それはおのれ自身を教える(25)= セザンヌ的スタイルが、「世界の表現」として、他者にも理解され、模倣され、変奏される。そうしてセザンヌ的なものが確立する。

→ 共有不可能なものの共有可能性はどのようにして可能なのか。セザンヌはまずは風景全体を受け止める。そして彼固有の視点から、彼固有の知識を使って、それを「表現する」。しかし、彼はひとたび風景全体を受け止めているのだから、この表現が、世界の現れ方の「ひとつ」でしかないことも知っている。もちろん彼は、そうした現れ方をできるだけかき集め、凝縮しようとはしているが、その結晶化のありかたも彼固有のものである。しかしそのことを自覚しているからこそ、彼は自分の「視点」が、他者にとっても理解可能であることを信じることができる。「ひとつ」の現れであっても、それは他者たちとともにいいる「世界」の現れには変わりはないからだ。現れてくる世界を通して、彼の「視点」は、他者たちの視点へと開かれていくことができる。とりわけ彼の「作品」そのものが「おのれ自身を教える」のだ。
メルロ=ポンティ両義性の哲学
・ ○ メルロ=ポンティの考え方1:ひとはあるパースペクティヴから世界を見る。しかし世界そのものは他者へも開かれている。画家は、こうした開かれた地平の中に入り込み、それを自分なりに結晶化させることで、世界への「ある種の」見方を、他者にとっても了解可能なものにすることを目指すのである。⇒ 私たちの視点は本質的に「部分的」であるが、それを徹底化すれば他者へも開かれている。

・ ○ メルロ=ポンティの考え方2:メルロ=ポンティは視覚とは、(1)物そのものを、それがある場所において、ある時間において見ることから出発する(自然的な態度)(2)しかし同時に彼は「見ることを学ばなければならない」とも言う。物は、そのうちに様々な現れ方の可能性をはらんでいるからだ。
   物の持つ無限な現れの可能性=物はしかしひとつの物であり続ける。

・ ○ メルロ=ポンティの考え方3:(1)「我々はけっして局限されない」(未来への投企。「ひとは自由であるべく運命付けられている」(サルトルの想像力)(自由の側面)(2)しかし他方で、「私」は同一の私であり続ける。過去を振り返れば、つねに現在の私を予告するものを見出すことができる(運命付けられた側面)

・ そのとき「何かが獲得される」:作品の永遠性。それは数学的なもののようなかたちで「永遠」ではないし、たんなる「瞬間」でもないが、残り続ける。。。

マチスの「一筆」
・ 絵画そのものがなろうとするものにならしめる
・ しかし選択はある。
・ 後から「無限の選択の地平」があったことが明らかになる。