廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

2013年度 メルロ=ポンティ『眼と精神』1(みすず書房)

一 身体の謎から絵画の狂気へ!
1) 身体論
① 視覚と運動の縒糸(絡み合い)
・「見ること」と「運動」:「眼の運動の中に、<見る>という働きが起こっている」(257)
・ 「私はなし得る」(I can ↔ I think):「私はピアノを弾くことができる」=潜在能力、習性=身体運動の「動機」。補足「私はできない」ということもそういう動機付けたりうる(「当事者研究」)
・ 「世界に身を開く」(258)。その「世界」も「物質」ではないような経験の地盤。運動も<意図—目的>では説明できない(マチスの「選択」)。
・ 身体は「自分を動かす(move oneself/se mouvoir)」。「無知」でも「盲目」でもない選択主体。
② 見るものと見えるものの「交叉」(キアスム)
・ 「謎は、私の身体が<見る者>あると同時に見えるものであること。見えるものは「見る能力」の「裏面」(258)である。(メビウスの環のような、手袋を裏返すような)。
・ たとえば触るものは、同時に触られるものである。物の間に取り込まれる
③ 見るものと世界
・ 「私の身体は世界の折り目のなかに取り込まれている」
・ 「世界は、身体という生地で織りなされている」
・ 「視覚は物のただなかからみずから生起してくる」(259. Cf. 266)
人間の身体:能動と受動の交叉(キアスム)における「火花」(260)
④ 絵画の謎と身体の謎
セザンヌ「自然は内にある」。「そこ」にあるものが、身体の内側に「共鳴」を引き起こす。→ p. 267のシルダー〔「身体図式」という概念の確立者。〕の観察
・ ラスコーの絵画。岩の上にもなく、どこかほかのところにあるのでもない。「絵を見る」のではなく、「絵に従って、絵とともに見る」(261)
⑤ イメージ(image)とは?
「想像的なもの(=イメージ的なものimaginaire)は、現実的なものよりもずっと近くにあり、またずっと遠くにある」(261)
・ 身体に眠っている「見ること」は「第三の眼」ではない(262)。見ることを見ることによって学ぶこと。
・ 視覚の「狂気」=離れて持つ(avoir à distance/have at distance)。
「画家が描くのは<見た>からであり、世界が一度は見えるものの暗号を画家の眼に刻みつけたからだ」(264)
セザンヌの山。「山そのものがあちらから、みずからを画家によって見られるようにする」「それによって山がわれわれの眼前にある山となる手段を見出すこと。その手段そのものも見えるものにすぎない」(264、翻訳修正)
・ 光、照明、影、反映、色などは実在するものではなく、亡霊である→そこから「何ものか」が生まれる。レンブラントの<夜警>
・ 物を見せるためにおのれを隠す「戯れ」

オランダ絵画
人間以前のまなざし
物の内に視覚の働きの萌しがある。