廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

戦うフーコー:第二部

コメントより
フーコーの「快楽」とドゥルーズ/ガタリの「欲望」については慎改康之「欲望か快楽か」http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/pdf%20files/desir%20ou%20plaisir.pdf
フーコーが社会野を権力の戦略によってその全体を貫かれたものとみなすのに対し、ドゥルーズはそれを、いたるところで何よりもまず逃れていくもの、逃走するものと捉えているということである。」 → フーコーが「欲望」概念を拒否する理由。フーコーにとってたとえば「倒錯者」という欲望する存在は、権力がむしろ生み出す道具。主体の「秘密」=「我々はどういう存在であるか」を語らせるもの。主体をその真理に結び付けてしまう。
→ では「快楽」とは何か。cf. 「セクシュアリティと欲望の真理 」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/pdf%20files/sexualite.pdf)。「セクシュアリティの問題を、すでに自らに与えられている欲望 の問題としてではなく、これから創造すべき生の問題として、これから発明すべき諸々の 快楽の問題としてとらえ直すこと。こうした創造と発明のためにこそ、懸命な努力が求められているのである。」
(廣瀬仮説)主体が自己を、その「真理」の「認識」以前の次元で享受すること。
フーコーの麻痺とアーレント
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(補足)
フーコーの方法。たとえば「国家がなかったとしたら」と仮定する(普遍概念の拒否)=しかし「国家」は現実としてある。それは「イデオロギー」でも「幻想」でも「表象」でもない。
→ にもかかわらず「国家がなかったとしたら」と仮定してみると、「現実」としてある国家を密かに支えているものが見えてくる。=ミクロな権力諸関係、さまざまな制度に主体を組み込む手続き、さまざまな真理をめぐる実践などが見えてくる。「国家」といった普遍概念を自明なものとみなさないこと。ミクロなレベルで、別の様式の実践や手続きを創出することができないか。
戦うフーコー:第二部
④・ 「出来事化」:「自明性の断絶」「自明性へと依拠させられる地点で、<特異性>を出現させる。そこにおける「力のゲーム」を見出し、因果関係を遅らせる。

・ 明証性が失われる瞬間:微妙で秘められているが決定的。捉えにくくく、意識化が遅れる。
メルロ=ポンティの「明証性の倫理」
• 自分自身の明証性に安住しないで眠らせない
• ひとつの事実でそれが変わると思わない(「イデオロギー批判」批判)
流動性:物事を遠くから、間近から、周囲において見ること。
• 親しくもあるが、よく知られていない地平に取り囲まれている。
どんなに儚い瞬間にも源泉がある。

・ 「自己実現」「アイデンティティ」「個性」→本質的な本性ではない。精神分析もダメ。「自分自身や自己の振る舞いに関するある種の概念」を主体性から解放すること。
・ 個人の生のコントロール(保険) と その虐殺の相関関係。
・ 精神病院批判より、個人の振る舞いを合理化することを問題視すること。
・ 合理化=人間の行動の総体をプログラム化する。暴力と合理化は矛盾しない。理性と戦うのではない。

・ イマージュに内在する出来事
・ 出来事=写真の上に出来事=絵画を創造。後者の出来事を伝達。「それを見に来るであろうすべての人に対して、そこに注がれるそれぞれ特異な眼差しひとつひとつに対して、一連の新しいパッサージュ(通過)を引き起こすこと。ユニークにして多。
・ 絵画がみずからの力だけによって、出来事を通過させ、イマージュを存在させなければならない。イマージュ投石機。