廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学概論(4月13日)「感覚を分かち=合う」こと。

先端文化学概論I:「感覚を分かち=合うこと」

 考えたいこと:感覚を人と「分かち合う」とはどういうことだろうか。とりわけ、喜び、感動、不安、痛みなどを、他者と「分かち=合う」ことはどのようなときに可能なのだろうか。たとえば芸術とはそのような「分かち合えない」ものを「分かち=合う」ための媒体ではないだろうか。また芸術だけがそのようなことを可能にするのだろうか。

○ 一般に感覚とは「主観的なもの」「カオス」と考えられている。
他方、精神、理性は「客観的なもの」「情報」「意味」を解釈し、身体に指令を与える機関と考えられている。
○ 「感覚的世界のロゴス(論理、真理)」
それでは「感覚」を他の人に伝えることはできないのだろうか。とくに強い情動を伴った感覚には、独自の「意味」があるのではないか。
セザンヌの絵画、ジャコメッティの「顔」、フランシス・ベーコンの感覚
○ 他方、「精神」「理性」もまた、身体をもって具体的な世界に「受肉している」のではないだろうか。「身体化された心」(ヴァレラ)「心は外(環境)にある」(河野哲也)。
○ だとすると「精神」が語る言葉もまた、たんに「自分の考え」を「言葉に翻訳し」て「他人に伝える」ものではないのではないだろうか。
「自己は自己のこえを聞いてはいられぬ、自分のこえを聞くときは自己の内に留まることだから。自己がこえとして、行動として他者に向かって働きかけるとき、自己は自己を越え、自己を意識することを放棄するということである。私流に言えば、私が真に私として行動する(ことばを発する)とき、私はもはや私ではない」(竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)cf. 『声が生まれる』中公新書)。

○ 他人と真に感覚を分かち合うとき、「こえ」がたしかに誰かに「触れた」と感じるとき、なにが起きているのだろうか。そのとき「私はもはや私ではな」く、「ひと」(メルロ=ポンティ)というあり方に変容している。
○ 「ひと」は私でも他者でもなく、またそのどちらでもあるようなものだ。イデオロギーに固まった「我々」ではなく、私が私から抜け出して、何か別なものになるような経験。そんな経験をまず芸術家に学んでみたい。