廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究5 4月13日資料 身体とことば 『知覚の現象学』を読む

からだとことば──メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読む
○ モーリス・メルロ=ポンティ(1908-61)とは
サルトルとともに、第二次世界大戦後活動を始めた哲学者。当時は「実存主義」者として知られたが、現在は彼の「現象学」(ドイツの哲学者フッサールが20世紀初めに創始した学問)の「新しさ」が注目され、芸術論、絵画論、演劇(竹内敏晴)、心理学、地理学、教育学、社会学看護学リハビリテーション、ダンス学、スポーツ人類学、ファッション論、人類学など、多様な学問で彼の思想がインスピレーションを与え続けている。とくに遺著『見えるものと見えないもの』や『眼と精神』は、いまも謎めいた作品として新しい読みを呼びかけている。
○ キーワード:
1. 身体論(生きられた身体、幻影肢、身体図式)
2. (主体と客体の)両義性、可逆性
3. 「生まれつつある意味」(「語る言葉」と「語られる言葉」)
4. 身体化したこころ(embodied mind)
5. ものに見つめられること、触れられること
6. 他者とともに生まれ直すこと
○ 主著
『行動の構造』『知覚の現象学』『シーニュ(記号)』『弁証法の冒険』『眼と精神』『見えるものと見えないもの』など。おもにみすず書房から発売されている。他に『メルロ=ポンティ・コレクション』(ちくま文庫)もある。
○ ポイント
・ 私たちの身体は、主体(脳)に統御された物質ではない。物質的身体とは異なった、「幻影」や「影」のような身体がある。そうした身体は、皮膚に閉じこめられず、世界に広がり、世界につねに働きかけている(「こころは身体の外にある」)
・ 「もの」もまた、さまざまな「表情(相貌)」や匂いや雰囲気など、「見えないもの」に取り囲まれている。客観的な世界の「深さ」に対する感性。こうした「もの」たちは、身体をとおして私たちの「こころ」に働きかけている。
・ 「身体」がとらえようとするもの、それは、世界において「生まれつつある意味」である。身体の「知覚」こそが、この意味を拾い上げていく。たとえば画家は、ものの「表情」や「雰囲気」や「匂い」など「見えないもの」を拾い上げ、それを作品にする。そうして私たちは「見ることを学び直す」ことができるのだ。そしてその作品を見る鑑賞者も、また世界を別の仕方で見ることを学ぶのだ。
・ このようなことは「見ること」だけでなく、「言葉」にも言える。たとえば詩人が、ふつうの言葉を使って、だれも考えつかなかったような「言葉の風景」を作り出すことがないだろうか。幼児が初めて発する言葉はどのような言葉だろうか。深い感動を受けて、それを他者に伝えようとするとき、いったいどうすれば他者にそのことばを「触れさせる」ことができるだろうか。深い沈黙から生まれる言葉、それが「生まれつつある言葉」である。それは「語り出そうとする沈黙」を言葉にしてやることだ。
・ このように考えるとき、他者たちと「ともにある」ということはどういうことだろうか。見慣れた風景の中で、たんに「メッセージ」だけを伝えるのではなく、自分と他人がともに「生まれ直す」ような共通な世界を、つかのまであれ、作り出すことができないだろうか。メルロ=ポンティの思想はそう呼びかけている。

○ この授業では、なかなか独力では読みにくい『知覚の現象学』を抜粋で読み(プリント配布。購入の必要はありません)、メルロ=ポンティの世界に触れてもらう。それと同時に、さまざまな他分野への応用も紹介していく。
○ まずは家であらかじめ配布した部分を熟読して、面白いと思ったところ、わからないところ、面白そうだけどわからないところをチェックしてもらう。授業ではポイントだけを整理するので、それに対するリスポンスを書いてもらう。次の授業ではこのリスポンスに対するリスポンスから始める。自分の興味のある問題への応用を示唆してくれれば、文献などを紹介します。
引用集:
「喉の収縮、舌と歯のあいだからのヒューという空気の放出、われわれの身体を使うある種の使い方が、とつぜんひとつのかたちとなって意味を与えられて、われわれの外部に向かってそういう意味を指示するようになる。このことは欲情の中から愛情が浮かび出てきたり、人生のはじめのとりとめのない運動のなかから、あるしぐさが浮かび上がってくること以上に、奇跡的でもなければ、それより少なく奇跡的でもない」(I, 317)。
「私が悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れ切っているあいだにも、すでにわたしのまなざしは前方をまさぐり、ぬかりなくなにか輝いたものをめざしており、こうして自分の自立した生存を再開している。(中略)その瞬間の直後に、時間は、すくなくとも全人称的時間はふたたび流れ始める」
「われわれの身体が芸術作品と比較しうるというのは、(中略)私たちの身体はいくつかの生きた意味の結び目であるからだ」
「私たちはガラスの堅さともろさを見るのであり、それが透明な音とともに割れるときには、この音も眼に見えるガラスによって担われるのだ」
「われわれは、ものの奥行きや、ビロードのような感触や、やわらかさや、堅さなどを見るのであり、セザンヌに言わせれば、対象の匂いまでも見るのである」
「言語は沈黙を破ることによって、沈黙が手に入れようとして果たし得なかったものを手に入れる。しかし沈黙は言語を取り囲み続ける」