廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化研究5 5月18日 身体の永続性と「対象」が現れる地

メルロ=ポンティは、このような存在でも無でもない次元のことを「奥行き」「深さ」と呼びます。それは「自分を隠しながら、対象を対象として見せている」ような次元です。これが「対象」にいわば「厚み」を与えており、そしてまた視覚以外の感覚を与えます。『眼と精神』という著作では、セザンヌ以降の芸術家が、遠近法(一点透視画法)に対する闘争からはじめて、このような奥行きの次元を開拓したと言います。画家はいわばこの奥行きによって取り囲まれ、身体はまずみずからが「見えるもの」としてこの奥行きに入り込み、対象から見られたり触られたりするようにしながら、世界そのものを描こうとしたと言います。

(先週のあまり)
1) 時間の両義性。
・ 記憶でも忘却でもなく、その「間」にあるもの。「幻影肢とは想起ではなく、準=現在である」。
・ 「腕の幻影肢は、まだ過去になりきってしまわない古い現在だ」(154)。
→ この古い現在が、「現在」に入り込んでいて、「現在」の「厚み」を形作っている。

メルロ=ポンティの時間論について補足
メルロ=ポンティにとって、時間とは単なる「点」のような出来事の連鎖ではない。
・ 「現在」は「過去の地平」と「未来の地平」と連続していて「厚みのある現在」「垂直的な現在」を形作っている。
・ しかし、直前の経験であるのにあっさり忘れられる体験もあれば、遠い過去であるのに残り続ける過去もある。この時間には一種の「歪み」がある。体験の「内容」が、時間の「形式」に影響を及ぼすこともあるということ。
・ このようにメルロ=ポンティは、たんなる点としての時間でもなく、また数学的な真理のように「イデア的」なものでもないのに、なにかが「残り続ける」ような時空間を切り開こうとしていると思われます。→ 歴史以前の記憶、神話的記憶、父母未生の生

cf. 「けっして現在ではなかったような過去」(『知覚の現象学2』p. 59.そのような幻影的な過去に私たちは「身体」を通して開かれている。
cf. デリダレヴィナスはこのような過去を「痕跡」と呼ぶ。現在という点は、このような痕跡にたえず蝕まれ、分割されている。「生き生きとした現在」を脱臼させる「亡霊的なもの」。
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「身体の経験と古典的心理学」
1)自分の身体の永続性(p. 160-164)
(1)自己の身体はいつも「ここ」にあって
(2)対象とはことなるかたちで私とともにあり
(3)対象が対象として現れることを可能にするが、それ自体は対象ではない。

○ 対象の永続性と身体の永続性
対象はさまざまな展望(パースペクティヴ)の元に現れるが、その変化のなかで、その変化を通じて、永続性を持つ。「対象が対象であるのは、対象が私から遠ざかりうるものであり、したがって私の視野から消失してしまうこともあるから」(160)→ デリダの「現前の形而上学」批判。デリダによれば、現前するものは、それが消え去る可能性をすでに「現在」において持っていなければ、現前しない。それははじめから「痕跡」としてある。

それに対して自己の身体の永続性は、「いつも私のもとにある」「私の目の前に対象としてあるのではない」「知覚の周縁にある」「私とともにある」ゼロのパースペクティヴ

身体は「始元的な習慣」(162)である。
身体は観察不可能。一切の視像の手前にある。
触れつつある自分の身体に触れること。
→ 私の身体とは一般に対象が存在するようにさせている当のものだ」(163)
対象の永続性の「地」。

自分の身体は、諸対象の中にはまり込んで、「すべての対象のなかに自分の持続の脈搏を波打たせている」(164)

○ 二重感覚(164-165)
身体は感じるものであると同時に感じられるものであるということについて。
「触れる」と「触れられる」が交替する曖昧な体制
触れるから触れられるへの「移行」
「対象を探ろうとして対象の方へ伸ばす、生き生きとした働き」。
それを外部から不意に捉える。「一種の反省作用」

○ 「私の足が痛い」
苦痛が自分の場所を指示する
苦痛はひとつの「苦痛の空間」を校正する
「私の足がこの痛みの原因であると思う」ではなく「苦痛が私の足から来る」ということ。
苦痛のもつ「原始的容積性」→ 意識を意識自身の外へと投げ出す感情的地。