廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究5:正夢と知覚的・情動的・夢幻的意識(2015.7.6)

1) 『知覚の現象学』:「性的存在としての身体」
・ 「世界における存在様態」として性的存在(情動)を捉える。
・ 身体図式と同じように、「エロス的知覚」は「世界」においてなされる。

ポイント:
1) 身体は、他者との関係において、強い情動的な志向性を打ち立てることがある。
2) この志向性は、すべての自由を奪うものではないが、私たちが出会う出来事の「意味」を「沈殿」させる。
3) この「沈殿」された意味は、さまざまなかたちで「変身」して私たちの実存全体に広がって、私たちの行為のスタイルの枠組になっている。

例)
ある青年と会うことを禁じられた少女が失声症に陥る→言葉が情動的な共同的実存と結び付いている。家族の禁止を文字通り「呑み込む」こともできない。
・ 身体は、過去と未来、自己と他者に関する実存の諸様態を「表現」している。
・ この場合「表現」とは?:記号が事物や概念を意味する、のではない。むしろ実存的な意味が記号に住みつくのである(cf. 呪術的なもの)
・ 彼女はみずから沈黙を意志しているのでも、それを演技しているわけでもない。「ヒステリー患者は自分自身に対する詐病者である」。「あたかも記憶を失うように声を失う」(幻影肢と対称的な存在)
例)妻からプレゼントされた本を、彼女と和解した後に見出す(フロイト):知と無知、肯定と否定の手前に身を置いていた。
・「形而上学的猫かぶり」:知っていることを隠すのではなく、忘却は、睡眠をマネしている人に睡眠が訪れるように、身体に訪れる。睡眠が「一般性」(五感一般)に陥るように、ヒステリー患者はみずからの役割に陥る。身体への閉じこもり=無名の生への閉じこもり。

回復:「川の氷がとけるように」身体があらためて世界や他者に身を開くとき=身体全体を凝縮する「回心」。「身体が共存によって貫かれる」。身体という記号が意味に貫かれ、世界に投げ出されるような瞬間。受肉した意味。

性と実存の相互浸透
性は意識の一部でもなければ、第二の意識(無意識)でもない。それは一つの雰囲気としてたえず人間生活に現前している。
「「他者たちは夢のように、神話のように私たちに現前する。そのことだけで現実的なものと想像的なものの区別を疑問視するに十分である。」(『言語と自然』)

「正夢」「テレパシー」
フロイト「正夢について」のメルロ=ポンティの注釈の特徴
・ 過去のK2(原文ではK1)との「出会い」が強い情動を与え(根源的創設)、「消し去りがたい」ものとして残り続ける。しかしそれは「どこに」残るのか??
メルロ=ポンティによれば、この「出会い」は、彼女の以後の情動生活にある種の「枠組」を創設するものである。その枠組において、彼女はある種の「情動的身体図式」を獲得する。
・ しかしこの出会いそのものは、そのままのかたちで記憶されない。
フロイト:検閲、隠蔽、回帰(否定的な言葉遣い)
メルロ=ポンティ:「知覚的意識」が、概念以前の次元で、ある対象を「志向」する。「知でないような知覚的な接触」。
メルロ=ポンティによれば二人のKが「置き換えられた」のは、「カムフラージュ」ではなく、根源的に志向されたK2が自己変容したものである。「正夢だ」という確信は、その人そのものと接触しているという確信に基づく。いわばK2がK1に憑依しているのである。
メルロ=ポンティの前提:出会いの情動的強度が強ければ強いほど、それは彼女の個人的・社会的なさまざまな人間関係に響き渡り、K2の分身をそこに登場させるのである。これはK2の変身、二重化と呼ぶことができる。
・ 彼女の身体は、こうして「ぶれ」ながら、さまざまに重層化する「諸制度」の共鳴体である。
・ 彼女がこうして生きるのは、偶然の出会いを起点とする「夢幻的時間」「神話的時間」である。神話的時間と言ってもそれは、いわゆる国家の起源神話のような確固としたものではなく、あくまで知覚の次元で経験され、ぶれとともに別のかたちで呼び起こされる。それは過去にあるというよりは、現在の知覚世界の中にひそかに宿っており、ちょっとした細かな出来事で、呼び起こされるのである。

cf. ミシェル・フーコー『精神医学の権力』(筑摩書房)(ヒステリー=詐病に関して)
廣瀬浩司「実存・無意識・制度」http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/documents/jitsuzon001.pdf