廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究5:自己の身体の総合(6月29日)

「自己の身体の総合」(『知覚の現象学』、pp. 247-255)

[晩年の身体論=二重化の問題]
晩年の遺作『見えるものと見えないもの』において、メルロ=ポンティはしばしば「見る者」の二重化、「見えるもの」の二重化について語っている。

私の身体ともろもろの物の交差配列(キアスム)、これは私の身体が内と外とに二重化されること──そしてもろもろの物が(それらの内と外へと)二重化されることによって実現される(『見えるものと見えないもの』みすず書房、p. 389)。

身体は「見る者」であると同時に「見えるもの」であり、物は「内」と「外」、あるいは「おのれを見せること」と「隠れ」(奥行き)として二重化し、この相互の二重化によって、両者は交差配列をなすのである。いま議論を身体側に限定するならば、「視覚」は「外から見られた私自身」「見えるもののただなかに位置して」「それをある場所から見ている」私自身によって「二重化」されているとも言う(同書p. 187)。『知覚の現象学』における幻影肢の主題、二重感覚の問題(能動と受動の交差)、そして「自己幻視」の問題などは、まさにこの二重性の主題を萌芽的に語ったものと言えよう(当時のメルロ=ポンティはこれを「実存の両義性」と呼んでいる)。身体によって見られる世界は、物たちがオーバーラップして二重化し、セザンヌの絵画のような「奥行き=深さ」の空間を形作っている。身体はこの物たちの世界に住み込みつつ、やはり物理的な身体とは異なった「深さ」を備えた二重の存在なのである。
[自己の身体の総合:始元的空間を生きる身体]
『知覚の現象学』の「自己の身体の総合」の章は、晩年の著作(とりわけ『眼と精神』)のようなメルロ=ポンティ独自の用語による思想を展開せず、むしろひとまず私たちの客観的な認識、その身体観との対決にあてられており、晩年の著作のようなイメージ喚起力は少ないものの、その意図と思想的射程、そして科学との対決など、具体的な応用にはむしろ有益である。
彼はまず「客観的空間」と区別される「始元的空間」(247)を取り上げ直すことから始める。この空間は「身体の存在」そのもの、「身体が自己を身体として実現するそのやり方」(248)そのものである。
[自己幻視:始元的身体の現れ]
この空間において視覚的・触覚的・運動的様相が含み合うのと相関して、身体もまたそうした諸感覚の総合を「一挙に」(250)実現する。だとするならば「自己幻視」とは、ふだんは視覚的な世界に隠されている始元的な身体が現れたものであることと考えることもできよう。「私は私の身体である」「身体はみずから自己解釈する」(Id.)と言いうるのは、そのような瞬間なのではないだろうか。
[始元的身体=文化の萌芽]
だが興味深いのは、メルロ=ポンティはここで客観的身体の奥底に始元的なものを見出すと同時に、それを芸術作品という文化的なものと類比的なものと考えていることである。彼は始元的な世界に神秘主義的に融合するのではなく、むしろそこに文化の萌芽を見るのだ。セザンヌの色彩やその抑揚、詩に隠されたアクセントや調子、小説が暴き出す間主観性の隠された絆などは、ひとつの実存そのものの「転調」(251)として、自己を永遠化する。だが重要なのは、この永遠的なるものは「イデア的」なものの永遠性ではなく、あくまで「壊れやすい紙のうえに記された文字」(Id.)でもあること、つまりいわば「物と同じ仕方で存在している」(Id.)である。それはいわば物であるような意味そのもの、言葉であるような物なのである。そこでは「表現と表現されるもの」を区別することはできない。私たちはそれに直接的に触れるしかないのだ。このような永遠性を彼は別のところで「実存的永遠性」と呼ぶ。
[道具に繋がれた身体]
さらにメルロ=ポンティは、「同時に運動的でも知覚的でもある」(253)運動習慣の例を挙げ、この身体的総合が「道具の使用」と関係していることを示唆している。盲人が杖によって世界を探索すること、それは私たちの身体の新たな「使用法」(255)の獲得であり、「身体図式」の再組織化である。反対に言うならば、このような総合的な身体、始元的身体は、いわばそれ自体のうちに「道具」という非自然的なものを組み入れることができるようなものなのだ。その意味で「眼」もまた「自然的道具」(254)であると言いうるのである。ここで決定的に重要なのは、文化的表出こそが自然的表出を回顧的に明らかにすることであろう。彼はたんに始元的なものに帰れと言っているわけではなく、それを実現するような文化的創出が既存の文化を解体することを占めそうとしているのであろう。
[表現する身体:意味の取り込み]
このように自然的身体に組み込まれた文化の萌芽、それは身体のまわりに「意味の新たな結び目」(255)が形成され、それまで「ある種の欠如」としてのみ私たちのまわりにあったものが、身体に組み込まれることでもあるだろう。このように空間に密かに眠っている意味を、身体が取り上げ直すこと、それこそが身体が「みずから自己解釈する」(前出)ということであろう。
身体はみずからを二重化しながら、このように世界の意味を取り上げ直し、それを「表現」するのである。