廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学概論I1 6月30日

コメントより:
・ 絵と写真の違い。身体性の有無。→ 写真の身体性、映画の身体性?? : 写真の影響、写真に対する絵画の独自性
催眠療法と芸術の関係:影響関係か、同時代性か。
・ キャンバスに収まる以上のものを語りたいということか。
・ 鏡と空間の圧縮とは?
・ 煙が出すぎ
・ 構図の歪みを持つ絵画は、見れば見るほど鑑賞者の目線を解体、解放し、鑑賞者の感覚は絵画の世界へと溶け出していく。
・ 身体・人間・表現は矛盾によって成り立っている。「見えないものを見る」「注意によって解体へ向かう」:弁証法批判
・ 見せるための絵画なのにあまり見ていけない気がする:視線の遮断?
・ <温室にて>の柵やベルトが世界観を保っている:マネの位置付け
・ 鏡に映ったものを描くのは混在した現実を整理していく方法
・ 遠近法はたんなる技法ではなく、奥行きのある意味。:「意味」の意味
・ 絵の中にすべてを描かないことで空間を生み出していく:空間の自己増殖
・ ゆがみに違和感を感じない。
・ 違和感を感じた。後ろ姿で何かを語っている。人物を不確かなものにする。

これまでの授業
イントロダクション:
マチスの筆。「思考する筆」「意図と行為のずれ」
フォーサイスコンテンポラリーダンス:自分の身体への働きかけによる、普通の統合的身体の解体、外部への開け。身体の新たな意味の取り入れ
・ 勅使河原三郎:身体のへこみ、型にあえてはまるときの「距離感」、関節、足裏、重力、空気、動作の分割(<ガラスノ牙>)身体をとりまく「風景」も変わっていくのではないだろうか。そして人間関係の間の「空気」も。これはダンスだけではなく、ある生活空間での人間関係の「風景」も変えることにつながらないか。
・ タテでもヨコでもない斜行的関係
第一章 画家とその身体
マティス再考
・ 肖像の起源。愛する人を描くとき、影しか見ない。描くことと盲目性、記憶(デリダ
・ 一点透視図法。シンボル形式。等質な無限空間。動かない視点、観察者の固定。空間を吸い込む鏡(ファン・アイク、ベラスケス)
・ マネ(クレーリー『知覚の宙吊り』):注意の規範化。身体の固定と解体。
・ 同時代の動き。催眠術、ヒステリー的身体、写真の利用、表情の操作(Duchenne de Boulogne.デュシェーヌ・ド・ブーローニュ)、ファッションの取り込み。カイザー・パノラマ。
・ たえまない不安定の中に突入していく注意。拘束と散逸。

小レポート:
・ これまでの授業で、どのようにみずからの身体性に対する意識が変わったか。
・ 授業で挙げた例をひとつ取り上げ、自由に展開。
・ 視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚について
・ 空気、重力、雰囲気についての意識
・ 自己の身体についての意識
・ 芸術家は何をするのか

フーコーの解釈
・ 見えない裏地を描く
・ 絵そのものとキャンバスが重なっている
・ 不可視なものの炸裂
・ 外部から、正面からあたる光
・ 鑑賞者の空虚

参考資料:レポートのコツ(廣瀬浩司バージョン)
レポートの書き方については、いろいろな本が出ていますが、実は学問分野、対象領域(日本か、英米か、その他か)について大きな差異があり、各授業での資料を参考にしたり、教員の指示を待ったりしたほうがよいでしょう。ここではむしろ基本的な態度について書きます
1) 教員が求めるもの:これは何と言っても、教員が授業で言いたいこと、身につけて欲しいこと、問題として考えてほしいことを、どれだけ「受け止め」てくれるか、なのです。だからもちろん授業のポイントをうまくつかんで器用に期待に応えるのもいいでしょう。しかし、私としてはそれよりも、教員も悩むような解けない問い(例:脳死についてどう考えるか)について、問題の「難しさ」を受け止め、学生なりの回答を模索しているような態度が好ましいと考えています。
2) そのためには、インターネットなどで「ネタ」を探す以前に、まずは授業ノート、教員のレジュメや資料をじっくりと見直してみる。教科書があれば熟読し、参考文献(紹介されたもの、教科書にあるもの、など)があれば図書館で手にとって眺めてみる。これが出発点ですし、また、将来の卒論の出発点にもなるかもしれません。
3) 引用の重要さ
 レポートをいざ書き始めるときには、上の資料(教員のレジュメ以外)の「引用」をするため、アンダーラインを引いたり、コンピュータで「引用集」などをまず準備したりしてみるといいでしょう。そしてそれを眺め直してみると、授業や関連資料で自分がどういう点にひっかかるのか、興味を持つのか、疑問を持つのかが見えてきます。そうしたら、それに仮の題名を付けてみましょう。(例:「ストリート・ダンスにおける身体感覚について」など)。
4) 仮題名がついたら、それを長く説明するような文章を仮に書いてみましょう。例)「ストリート・ダンスにおいては、古典バレーやコンテンポラリー・ダンスとは異なる身体感覚があるように思う。それは何か。そこに他者の目はどう関係しているのだろうか」)
5) そのあとで、引用で得た直観を生かしながら、簡単に項目を箇条書きにしてみましょう。
例)1. ストリート・ダンスの発生と現状
  2. 踊る身体の身体感覚。共に踊る身体の意味。
  3. 他者の目の意義
  4. これからの社会におけるストリート・ダンス
6)さてこれでいよいよ書き出すわけですが、その際に重要なのが3)の引用です。引用にはいくつかのパターンがあります。
A) まとめ的に文章に組み込む。例)この点についてフランスの批評家ロラン・バルトは「身体がばらばらになりながら新たに組み直される感覚」 について語っている。ストリート・ダンスを踊る者の身体感覚はまさにそれである。だが、それはどのような作用に基づくのだろうか。
B) 長い引用は以下のようにします。
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 ストリート・ダンスの身体感覚について、ロラン・バルトは「ダンスの身体」(1967)で次のように言う。

ダンスの身体は漂流する。漂流しながらふたたび集合する。それは身体がばらばらになりながら新たに組み直される感覚である。ダンスするとき、身体はいわばもう一度生まれ変わるのだ 。

ここでロラン・バルトは、ダンスが「漂流」と「集合」の二重の運動によって成立していることを強調している〔と、一度まとめ直す〕。つまり、身体はこの二重の運動の緊張関係に挟まれていることを意味する。しかし、これはダンス一般論であっても、ストリート・ダンスの特殊性については多くを教えてくれない〔と、この引用の不十分さを指摘したり、反論したり〕。ストリート・ダンスの特殊性を考えるにあたっては、どのような要素が必要なのだろうか〔と、さらに論を展開〕。
注意:卒論などでもありがちなのは、参考文献を読んで、その要約を延々と自分の言葉で作ってしまい、その典拠がはっきりしないものが多いことです。たとえば「ストリート・ダンスの発祥は、・・・で・・・頃である〔典拠は??〕。それは・・・・によって広まった〔典拠は?それも同じ典拠?〕」のように書かれているのですが、このひとつひとつに注などで典拠を付けなくてはなりません。レポートや論文の終わりに参考文献を付ければそれでいいと思っている人がいるので念のため。

7) 最後にかならずまとめ的な段落を作ります。これまでの論述を振り返りながら、自分なりの結論を出せればベストです。「・・・について興味を持ったのでこれからも調べていきたい」などの「決意表明」は御法度です。
8) さて、ここで 3)4)に立ち戻り、「仮の題目」「その説明」をみなおしてみましょう。不十分に見えれば実はこのレポートは成功です。題目を変え、7の「結論」を「この論文でとくに示したいのは、ストリート・ダンスの所作のひとつひとつに他者の身体が組み込まれていることである」というように「仮説」のように書き換えましょう。(できあがり)