廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学概論 6/22

マネ:遠近法絵画のゆらぎ
クレーリー『知覚の宙吊り』(平凡社)の文化史的な解釈を中心に
マネ
• ・19世紀フランスの画家
印象派のリーダー的存在であったが、その作品はかならずしも印象派的ではない。「マネは以後のすべての絵画を可能にした」(フーコー)
• クレーリーのテーゼ:近代は「注意」が規範化(normalization)された時代である。注意する主体が規範化され、「拘束すると同時に分解する」。注意と散漫。
• 注意点:「注意が規範化された、ということは逆にいえば、「散漫」がたえずチェックされるということ。また散漫が、いわゆる「メディア」によって、ある意味「生産」されることで規範化が意味を持つこと。
例1) マネ<バルコニー>1868 : 注目点:
「スペクタクル」を見る人々(cf. ギー・ドボール『スペクタクルの時代』ちくま学芸文庫
遠近法の「平面化」というよりは「フリーズ」化(フーコー)浮き彫り(レリーフ)のような人物
散漫な視線
ブラインドがまぶたを象徴?

例2)<温室にて>(1879)
•  視覚の拘束(コルセット、ベルト、ブレスレット、手袋、指輪)(栽培植物?)
• 男—ベンチー女性が繋ぎ止められているベンチ。
•  顔の「不定形」性。内面性を感じさせない表面。
• 葉っぱが解放を象徴??
• クレーリーの結論:「注意を綜合し、固定化しようとする要求と、解離へと向かう心理や知覚の分散の相互関係」
• 白昼夢にふけっているような表情。ヒステリー的身体。
• 両眼が収束しない。
• 左手の不自然さ。結婚指輪の意味が不明であることがこの絵の決定的な部分
• 麻酔をかけられ、麻痺されたような手。
• :結婚という束縛とそれからの解放の相互作用。。
• 左手と右手の不均衡
• 注意深さによる世界の溶解
マネの絵画の背景 
1) 催眠術
 18世紀末、メスメルの「動物磁気」説に始まる(天体と地球と動物の間を流れる磁気を使用して、治療行為)
 19世紀後半に流行。
 「注意を限定して一心に合わせる」(光、心臓の鼓動に注意させる
 と同時に「動きに反応することを禁じる」
 → ヒステリー治療に利用される。
2)ヒステリー的身体
 シャルコー(1825-93)。フランスの神経学者、精神分析医。1882 年「サルペトリエール病院」 教授。催眠法を利用した、ヒステリー研究で知られる。催眠術で症状を再現した公開講義の記 録がのこっている。フロイト精神分析に影響を与える。 ヒステリー:カタレプシー、嗜眠、夢中遊行
• マネの同時代における「精神医学」→「精神分析」(こころを読むこと)
・ ヒステリー(シャルコー)、(女性の)身体の「コントロール
• 「写真」の使用→ヒステリー的な身体の可視化
• 「病院」という場所についての関心。病気というものをありのままに見させ、病気の真理 を作り出す場→これはどのように成立したのか
cf. デュシェヌ・ド・ブローニュの実験:電気で表情を作り出す
3)当時のファッション雑誌のイラスト
(クレーリーの解釈)
 マネはベルトを強調。
 ファッションは偽りの統一性とへと身体を縛り付けるが、それは同時にはかないもの
 モードは生ける身体を無機的なものへと交わらせる。
4)カイザー・パノラマ(ベルリン)とステレオスコープ
クレーリーの結論
• たえまない不安定のなかに突入していく注意
• 凝視すればするほど解体していく視線
• 拘束と散乱のあいだにゆらぐ身体
• 目を作り替える技術
• → 「綜合」「構築」へのたえざる欲望が以後の絵画の目的となる

ミシェル・フーコーの解釈『マネの絵画』(筑摩書房
「マネは以後のすべての絵画を可能にした」
「マネは以後のすべての絵画を可能にした」
マネが描こうとしたもの、それはキャンバスという見えない裏地である
すべての光が絵の外にある
光と影の宙吊り
<温室にて>ドレスの襞:水平から垂直へ向かう運動。キャンバスの裏地そのもの(フーコー
• 絵は見えないものしか語らない。彼らが見ているものの不可視性について語るのみ。
• 縦線と横線からなる生地=キャンバスそのもの
<鉄道>
• 「キャンバスの裏側を同時に見せること」
• 「見えない何ものかを見せること」
• 不可視なものの炸裂
<笛を吹く少年>
• 垂直に当たる光
• 彼はどこにも位置していない。影という空虚の上でリズムをとっているだけ。
• 絵に窓を描くのではなく、キャンバスを窓にしている
フォリー・ベルジェールバー
• 鏡=空間の深さではなく、むしろ圧縮された空間
• 真正面からの照明
• 画家:正面から描いているのに、右端にいる。別人? だが接近しすぎ
• 鏡が斜めになっている or 歪んでいるかのような映像
フーコー:鑑賞者が占めるべき場所が空虚になっている。