廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究5:7月7日:奥行の探究の意義

コメントより
・ <フォリ・ベルジェールバー>のずれが何を表現しているか。
→ (仮説)従来の遠近法絵画は、動かない一点からみた、理念化(幾何学的)な空間表現を実現し、同時に鑑賞者の視点をも指定するものであった。遠近法が歪み、空間が歪んだ絵画は、どのような画家の視点、鑑賞者を求めているのか。どのような画家=鑑賞者の身体性と対応するのか。
・ 画家自身を入れることの意味→ 絵画に自画像を入れるのは、ベラスケスの<ラス・メニーナス>にも見られるように、伝統的な手法だが、マネの場合それは何を意味するか。あるいは絵画一般において何を意味するか。
・ 解釈の多様性→ 「芸術作品は、それが豊かであればあるほど、多様な解釈を要求し、模倣者を増殖させ、未来の理想的な鑑賞者を作り出す」と哲学者メルロ=ポンティは述べる。豊かな絵画は「見ることを学ぶ」ことを教えるのである。また、フロイトも、夢とは「多元的に決定されている」と述べ、多くの解釈がいわば凝縮されていることを指摘した。

・「遠近法と奥行」
絵画は奥行を表現する。奥行=深さは見えるのか、というのは哲学でもかつて盛んに議論された。メルロ=ポンティは、奥行とは、ラスコーの壁画以来、画家の永遠の主題であるとも言う。「見えるもの」と「見えないもの」(単純に隠れているもの)の狭間にある奥行を「見えるようにする」とはどのようなものか。
・「奥行と対象」
奥行き表現の変化に伴い、そこに描かれる対象も変化する。絵画の奥行とそこに描かれた「対象」はどのような関係にあるのか。奥行き表現の変化は対象の表現をどう変えるか。
・ベラスケスの<侍女たち>とマネの<フォリ・ベルジェールバー>の関係は?進歩か、反復か。どのような進歩、反復なのか。
・ 「フラット化する時代」と深さ
芸術や社会について、現代は「フラット化」していると言う。それについてどう私たちはリアクションすべきか。
・ 「テクノロジーと感覚」
テクノロジーやメディアの変化は私たちの感覚をどのように変容させるのか。ひとはテクノロジーに「疎外」され、芸術はたんにそれを反映するのか。それともテクノロジーは新たな創造の媒体になるのか。 またテクノロジーそのものも、たんに「進歩」するだけではなく、「発明」という創造的な面も持つことを考えると、テクノロジーと芸術の境界はどこにあるのか。
・ 「芸術の有用性」
芸術は、たんなる私たちの「眼の楽しみ」「療し」ではなく、科学と同じように、私たちの感覚を変容させる力を持っていとしたら、芸術の「有用性」とは何か。また、一般に「有用」だとされるものとどう同じで、どう違うのか。
・ 「見えないものを表現する見えない身体」:メルロ=ポンティは私たちの身体も、芸術作品と同じように、諸感覚の統合体であり、またふだんは気づかない「感覚されない身体」にひそかに支えられていること、また新たな感覚の受容にも開かれていることを述べる。それについてコメントしなさい。
・ 芸術作品が「物質」であることと、それが物質以上のものを表現することはどのようにして可能なのか。
・ 「制作するプロセスと自覚された意図」:芸術家が行っているのは、見えるものや見えないものを見えるようにする、という一見単純だが、困難な作業であり、膨大な時間のプロセスを必要とする。このプロセスには、まず感覚の研ぎ澄ましと練り直し、空間とのせめぎ合い、記憶との対話、同時代の芸術との影響=相互作用、そして対象との単純な向き合いへの回帰など、無数のものが畳み込まれている。→ この「制作プロセス」と「完成された作品」、「プロセス」と「自覚された意図や構想」は区別してみたい。その差異はどこにあるか、身体性はどうかかわるか。
・ 「絵画と他の芸術」。絵画における奥行への問いは、建築やダンスにおいてどのように実現可能か。また音楽においてどのようなことが言えるか(沈黙、リズム)