廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

ダンスと音楽的本質:先端文化学研究5 7月23日

コメントより
・ ダンスの運動習慣について。観客が生で触れるか、メディアを通すか
・ 「音楽的本質」の本質とは。→ 行動の「価値」「意味」。概念でも固体でもない。
・ ピアノの叫び「今までどうやって弾いていたんだっけ」と意識した瞬間、習慣を喪失。
・ 身体の拡散と収縮。その潜在的なポテンシャルを自発的に稼働させる。自由への要求
・ 「ダンサーと身体の空間の圧縮の度合が、クラシックとコンテンポラリーの差異」
・ ダンスにおける意味づけとは。

・習慣の獲得:「運動的な意味の運動的な理解=了解(comprendre)。たんなる比較ではなく「ヴォリュームをもった力」「ある自由な空間への要求」(240)。この「ヴォリューム」に道具や学期が与ることで、実存の様態が変化する。
・ 「われわれのまわりにある、われわれの狙いやわれわれの所作のおよぶ可変的な射程の登録」(241)
・ 「習慣とは」(241):認識でも自動運動でもなく「手の中にあって身体的努力によって得られる知」(昵懇(familiality)知)
・ 指の運動は、運動性の一種の「転調」として、さまざまな「表情」を持つ(241)タイプ、視覚空間の転調に対する運動性の転調。
・ オルガン奏者の例。条件反射ではない。音管やペダルや鍵盤は「情動的または音楽的な価値の諸力」として、楽譜における音楽的本質と結び付く(244)。
・ 身体と楽器は「音楽そのものの通過点」「音楽によって存在するもの」と思われる。→ この「逆転」に注目。音楽的習慣の解明→ いわば音楽そのものによって摑まれ、存在せしめられる新たな身体=道具複合体が存在する。音楽がその中で思考する。
・ templum:ローマの占いで、手で空間を切り取ることに基づく。
・ だがこの「音楽的な意味」は、ひとつのローカルな場所で炸裂する。身体は表出の運動そのもの。そのとき「意味」が場を与えられ、眼下にものとして存在し始める。
・ 新たな意味の核の表示(ダンス)。メタファー。文化的世界の萌芽。身体はこの意味によって「浸透される」、それを同化したとき、習慣が獲得される。(246)
・ 「意味」の意味についてのまとめ。(246)
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cf. 身体のポテンシャルについて(ドゥルーズ『差異と反復』)
ベルクソンはpossibleとréelの区別を疑問視。
1. possibleは、réelが「限定」された否定的なもの
2. possibleはなにかがréelになった後にのみ、回顧的に「可能性のひとつがあった」と回顧的に作り出されるものに過ぎない(概念的な操作)
それを受けて、ベルクソンははっきり述べていないが、virtuelとactual(actualization)
の区別をドゥルーズは語る。
1. virtualなものは、まだactualではないが、réelなものである。
2. virtualなものがactualになること、それは肯定的な操作
3. virtualなものは「可能性の宝庫」ではなく、singularitéの集まり。たとえば白色光がさまざまな色の広がりとして展開しうる。白い音、白い社会、白い言語。
4. virtualなもののactualisationはdifférentiationと呼ばれる、これはsingularityの創造という肯定的操作である。「光」という問題に対して、ヴァーチュアルなものは「眼」という器官を創造することで答える。さまざまな器官の折り畳みと繰り広げ。海で泳ぐとき、水質、波の流れはsingularityの集まりである。私たちは身体の動きによって、あるスタイルの泳ぎを創出する
5. 潜在的なものは「問題的(problematic)」なものである(眠り、めまい、失神、死、健忘、ざわめき、酩酊)。しかし、この問題と解は「似ていない」。