廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『眼と精神』2:見る者であると「同時に」見えるものであること

コメントより
・ 夢幻的身体:身体動作における残像。動作をリードする身体とその後に続く身体が同一個体として連動していく→「行為遂行的イメージ」(河本英夫)。行為と認識が結び合うイメージ。
・ 他者の身体だけでなく、イメージ、言葉、音楽も私に「とりつく」
・ 「間主観性」=「落としどころ」自他と利他と同様、つきつめて考えるのが不可能→メルロ=ポンティフッサールは「矛盾が絡み合っている糸巻きを断ち切ってしまう。自分はそれを謎としてそのままにする」
・ 小泉明朗。自己で記憶障害を負った男性が「ある男性」の戦争体験を語る。
・ 「自他対立図式」と「自他融解=融即」図式。なぜ前者で考えるのか。現実的身体=夢幻的身体。可能的=言語的?→ 両者いずれでもない図式は可能か。前者から出発して、後者から前者が生まれる瞬間を捉えること。単純に自他融合には戻れない。「反省以前のものの反省」。
セザンヌ:五感で世界を受容する感光板
・ 「他者」と「サイト」。ランドアートが一九六〇年代に始まったこと。フリード『芸術と客体性』(1967)などとの連動。
ニーチェセザンヌが引きこもって「人生はおそろしい」と言っても非難されないが、「ニーチェ以来、哲学は偉大な生き物になることを私たちに教えてくれないと言われてしまったら、どんな学生でも哲学からきっぱりと袂をわかってしまうだろう。画家の営みには、すべての緊急事を越えた緊急事があるかのように」=「世界の反芻」
==
・ 補足:ここでは「動物は他者との憑依関係を持たない」と述べられているが、別の所では、メルロ=ポンティはコンラート・ローレンツの「刷り込み」の例を分析し、「間動物性」という概念を出している。動物に「根源的シンボリズム(象徴作用)」の芽を見ている。

I.
構成:
[1]-[10] :身体が見る者であると同時に見える者であるというパラドックスの説明
[11]- :絵画論。「絵画の世界は、見えるもの以上のなにものでもなく、部分的でしかないのに完全なものなのだから、ほとんど狂気の世界である」(86)

{1}-[10]:「私の身体が見る者であると同時に見えるものでもある」という「謎」
・ 「画家は世界を絵に変える」=「活動しているさなかの現実的身体(le corps opérant et actuel)」 =視覚と運動で編み合わされた身体(entrelacs de vision et de movement)
・ 視覚と運動は、同じ存在の「全体的部分」(partie totale)(Leibniz.pars totalis。ひとつの「モナド」は「世界の鏡」。⇔ partes extra partes
・ 私の身体は自分を動かす(71)

コメント:[6]から[8]の部分は、メルロ=ポンティによるフッサールの読解に結び付いている。より哲学的な関心のある人は『シーニュ2』所収の「哲学者とその影」を読むとよい。
問題:私たちはひとつの「パースペクティヴ」から物を見るのにもかかわらず、世界全体をも経験している。また「他のパースペクティヴ」(他者)との「絡み合い」によって、「同じ一つの世界」を経験している。その原形は「私がみずからを動かす」ということにある。

[8]
「謎は私の身体が見る者であると同時に見える者であるという点にある」
根源的ナルシシズム
[9]「身体は物のひとつ」⇔「世界は身体と同じ生地で仕立てられている。」というパラドックス
「身体の受動と能動の間の交差点に火花がともる」(76)