廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『眼と精神』3 自己を動かす身体の気づき

構成:
[6]-[10] :身体が見る者であると同時に見える者であるというパラドックスの説明
[11]- :絵画論。「絵画の世界は、見えるもの以上のなにものでもなく、部分的でしかないのに完全なものなのだから、ほとんど狂気の世界である」(86)

[5]-[10]:「私の身体が見る者であると同時に見えるものでもある」という「謎」
[5] 「画家は世界を絵に変える」=「活動しているさなかの現実的身体(le corps opérant et actuel)」
・ コメント:ヴァレリーの引用からもわかるように、メルロ=ポンティは、身体が世界に「融合」すると考えているわけではない。そこにはわずかな「隔たり」がありつつ、オーバーラップしている。この隔たりの「気づき」が作品として結晶化する。
「実体変化」感覚的でありつつ、感覚にとどまらない、それ以上のものを醸し出す運動

[6]
視覚と運動の重なり合い(絡み合い、相互蚕食)=視覚と運動で編み合わされた身体(entrelacs de vision et de movement)

「私はできる」—「物」 ⇔ 「私は思う」—「客観的対象」

[7]
「まなざしで近づく」(触覚的イメージ)- 世界の「肉」にひらかれていること
これらの基礎に「身体はみずからを動かす」がある。みずからの身体についての微細な「気づき」。運動においてはじめてわかる、身体の自発性。世界の肌理。

[8]身体は見る者であると同時に見えるものである。触れられると同時に触れるもの。感じると同時に感じられるもの。
○ 難題(パラドックス
このようなナルシシズム=世界に開かれていること。運動しながらみずからを感じることによって、世界の肌理を感じ取ること。

[9] 身体の肉。「世界は身体と同じ生地で仕立てられている」
視覚は物のただなかにおいて、見ることを始め、見ることを学び直す。
世界のたえざる新しさに目覚めること。身体はみずからを感じるまさにそのことにおいて、世界の肌理に触れ、「他なるもの」へと開かれ、みずからも変容させていく。