廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

3月24日研究会まとめエッセー

キアスム装置はどこにでもあり、どこにでもない場所と時間で作動し続けている。偶然の出来事として自己を貫いたかと思うと、ある種の「宿命」のような必然性として、私をこの世界の底なき底に沈みこませる。私の現在の生に意味はあるのか、ないのか。現在とは、意味と無意味の彼方にあるものである。意味あるものは、つねに無意味の地平に取り囲まれているが、無意味なものは、ふとあるところで意味として沈殿する。それを掘り起こしていく考古学者がいる。世界が世界化する過程の追跡。それを遅れて解読する系譜学者もいる。謎として贈与された記号が、それを取り巻くものと共鳴するような場を開いてやることだ。ざわめきが私を取り巻く。そのざわめきの中から、無意味ではない何ごとかが生まれ、その発信者が顔を出す。それは友であるのか、敵であるのか、誰も知らない。私はそれをすでに迎え入れてしまっているのだから。他人と絡み合い、世界と絡み合いながら、私の行為は、もしそれが制度化的であるならば、新たな価値を沈殿させるだろう。兆しでしかないものに応答する「行為の狂気」、みずからを変身させることによって生成する意味、それを拾い上げる「語る主体」、この三者の中心に「世界の多産性(fécondité)」があるのだ。