廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

西村ユミさんと解釈的現象学

西村ユミ
「患者を理解するということ──看護師の経験、その身体性に学ぶ」

1 看護の現象学とは
Cf. ベナー『解釈的現象学ーー健康と病気における身体性・ケアリング・倫理』(医歯薬出版株式会社)
解釈的現象学とは。
「解釈」→
・「説明」と対立。
・世界における人間の「自己了解」
・歴史上のある文脈に依存した実践知の理解
・その実践における暗黙の自己了解を、その行動のうちに見て取る。
・我々の理解はそれ自体が身体性(embodiment)に根ざしている。

さらに
人間存在の時間性を考慮すれば、「語り」とその時間的な変化を追うことも重要になる。

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II. 西村ユミ「患者を理解するということ──看護師の経験、その身体性に学ぶ」(『現代思想』2008年臨時増刊号)
参考文献:『語りかける身体』(ゆみる出版)『看護実践の語りーー言葉にならない営みを言葉にする』(新曜社)『ケアの実践とは何か』(榊原哲也と共著、ナカニシヤ)

1 患者その人を理解することどのようなことか。
・誰にとっても理解可能で活用可能な情報を集めることによる「チーム医療」
・患者から客観的に取得される客観的情報(看護師の能力に依存)がある

問い:患者を理解するとは、このような客観的情報を基盤にするものなのか。
→ 看護師から患者への方向の理解でも、看護師の能力の問題でもなく「両者の関係として現れる、患者を理解しようとする看護師の経験自体の成り立ち」を捉え直すこと。

2 看護学生Aの例
学生の経験が、熟練者の習慣によって覆い隠されたものを暴き出すという仮説。
とくに、学生がある特定の患者に引き寄せられる、という経験に注目。

3. 経験の分析
1)気がかりに促される
知覚自体に疑問や関心が内包されていること。
2)自分の気持ちがわからない
自分の援助の方向性が「何か違う」とき。学生自身のまとまりのなさ。
3)「同じ気持ちになれたという感じ」
患者と一緒に居ることを通して直に感じ取られてしまう感覚(間身体性)
4)一緒に過ごす時間
自分の気持ちが患者の気持ちを感じる手がかりになり、その逆も成り立っていた。

患者を理解しようとすること。
1)患者に促された理解
「気掛かり」を足場とした関係。他者に促された経験。
他者とともにある私、患者とともにある医師
2)他者を知ること/自己自身を知ることを学ぶこと
「患者の立場に立つ」ことの自己中心性。
患者の「ペース」で考えない。

「患者を理解しようとする」ことの問い直し→自己の実践を知る+病の経験が、そのひとの人生の歴史の「今」であることを知る。

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コメント
・病院という「真理」「知」の場において、そうした真理が立ち現れるのに看護師の実践が関っていること。
・その実践の真理は、語りの実践の時間的プロセスの中においてこそ、次第次第に見えてくること。
・看護師当事者ではなく、そこに参与している「第三者」(?)にのみ見えてくるプロセスがある。「被関与的な傍観者」が「到来」する、ということ
・この真理は、普通の意味での「誤謬」とない交ぜになったプロセスとして展開する。
・「間身体性」は後からしか気づかれない。根源的関係性はつねに遅れてやってくる。ここにこそ真理と誤謬が交錯する場がある。
・語りの時間性、看護師の時間性、患者の時間性の接続。患者の「生」はつねに部分的にしか知り得ない。部分的であることにおける普遍性。「側面的普遍性」

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可能性と問題点
・実践の「改善」の可能性。規範的な行為からの「ずれ」において創出される関係性。
・この実践は医療器具などの「もの」も含むシステムと関係している。
現象学的な「記述」を通して「超越論的な領野」(メルロ=ポンティ)が開けてくる(
『知覚の現象学』第三部。

・実践的知と医学的実践の知の関係。背反的なものか
・言語的な語りと身体的実践の関係は一致するのか。言いよどみと事後訂正に注目すること。何が語られているかではなく、語りながら考える思考形態。
・人間的な「理解」と、科学的な知の関係は相反するのか。
・看護師の「習慣」をどのレベルで設定するか。
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メルロ=ポンティへの連想
・側面的普遍性。真偽の交錯。部分と全体との相互侵入。
・「制度」をどのレベルで設定するか。
・耳が聞こえない人が、相手の身振りの表情において、他者の現れを感知すること
・語りの変容における同一性。
レヴィナス的な呼びかけ、応答モデル(「顔」モデル)との相違
・トラウマなき出会いの可能性