廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

オルガンとダンス。あるいは習慣論の脱構築

「オルガンとダンス」(『知覚の現象学』p. 243-
メルロ=ポンティは「身体図式」の更新の思想家ではない。

習慣について、オルガン奏者の例で考え直す。
・オルガン奏者が、ひとの楽器で、短い練習で弾けてしまうこと。
―反射説(機械論)の批判
―分析説(観念論。頭のなかに鍵盤の表象がある)の批判
音楽的本質と音楽の直接的関係。身体と楽器がその通過点
「音楽はそれ自体で存在し、音楽によってこそそのたの一切のものも存在する」(244)。注(2)も熟読。
問:「表出(表現)空間が創造されるにあたって、どのようなことが起きているか整理してみる」

身体
「身体はむしろ他の一切の表出空間の根源であり、表出の運動そのものであり、それによってはじめて意味がひとつの場所をあたえられて外部に投射され、意味がわたしたちの手元に、私たちの眼下に物としてそんざいしはじめるようになる」(245)
→ 文化的な運動習慣としてのダンスが創出する「新しい意味の核」→ 道具を構成。
「身体がひとつの新しい意味によって浸透されたとき、身体がひとつの新しい意味の核を同化したとき、(・・・)習慣が獲得された、と言われるのである」

このばあい「意味」とはどういう意味だろうか(246)
・偶然性に結び付いている
・「形式」によって強いられない内容に属する
・身体、現実に存在し、病気に冒されやすいが、一般的な意味の核ともなる(本質と存在の区別にあてはまらない)