廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

ロラン・バルト「この古きもの、芸術」(『美術論集』所収) 講義メモ

ロラン・バルト「この古きもの、芸術」(『美術論集』所収) 講義メモ

 ポップアートといえば、ふつうならば(1)消費社会、大衆社会へのアイロニカルな視線(2)それを繰り返しやフラット化などによって模倣し、社会と芸術とを同時に皮肉る、という側面がまずは目に付くし、誰もがそれについて語るであろう。
 しかしバルトの論はそうではない。彼は芸術破壊、社会への反抗としてのポップを追いかけてくる芸術を見て取る。破壊と芸術との間で、ポップは新たなイメージを創造しているのだ。それはどのようなものなのだろうか。
 ポップは「脱象徴化」「非宗教的な繰り返し」「人格の変質」「非個性的なアイデンティティ」などによってひとたびゲージツを破壊する。画家は絵の表面となる。
 しかし「意味」は回帰する。そこにバルトの意味への屈折した愛を見てもよいだろう。ポップは知覚のレベルを変えて、「幻覚的なエネルギーを解き放つ振動」(レキショ論)を生み出す。網目のイメージで私たちを捉える。色彩の化学的な力を解き放つ(6節)。それは「能記」(シニフィアン)そのものとなり、「見つめられるもの」となり、その前に私たちを立たせる。私たちはそのとき何を受け取るのか。フラットな絵画は、かずかずの奥行をまとっていくのだ。
 ウォーホルの繰り返しは「ぶれ」から透けて見える存在を表す。リキテンステインは欺瞞的なスタイルの隠蔽に対して、レトリックそのものの情動をかき立てる。
 こうして芸術はポップに追いつく。奇妙なことにバルトはこの後で、ポップは「自然」を志向するという。そこに群衆的なもののとどろきを聞くのだ。この場合「自然」とは、風景画的な自然でも、アフォーダンス的自然でも、身体的自然でもなく、むしろそうした意味での自然と人工の混合体であり。その意味でポップはつねに「作動する機械」なのである。そしてまたそれは、みずからの消滅の可能性をはらんだ根源的自然(メルロ=ポンティ)としか言い様のないものである。
 だから自然との間には距離がないわけではない。距離を距離として維持する緊張感。「何が言いたいのだ??」末尾のこの言葉は、メルロ=ポンティの「私はどこにいるのだ」「いま何時なのだ」と同じような根源的な問いである。