廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

エルテ 6/23

毛髪:「新たな身体を形成し、最初の身体の基本的な形に不調和とならずにはめ込まれる補足的な(supplémentaire)な肢体(p. 19, 最終行)。」女性の身体をdé-former。女性と髪型の相互変調(p. 20, 後ろから3行目)。→ 身体から発した線が、線の意味を増殖する空間を指示。それは身体でも衣服でもない。
文字:アルファベットから生まれ、アルファベットに帰る。非具象画、グラフィカルな抽象が収斂。女性と文字の「弁証法的交換」「たえざる移行運動」(シルエットとして読まれることを求める)。
エロティックでないモード:「明晰さ」。読むことを求めるが、秘密はない→意味が生まれる以前の場のようなもの?
問い:エルテにおけるモードの観念の改革はどこにあるか
「出発点」であるようなシニフィアン
ジェンダーも有機無機も超える「ライン」 
エルテが作り出すのは、文字でもなく、女性でもない、両者の複合体であり、両者がたえず循環するような場である。それは身体でもあり、言語でもある。感性的でも概念的でもある。それは私達に読むことを求めるが、そこに隠されたものは何もなく、私達はそこに文字を読むだけである。こうして作り出されるのは、<記号が記号となるような場>、つまり意味が生まれる場ではないか。
 そのような場はまず身体のように純粋に有機的でも、機械のように無機的でもない。またそれは男性的でもなく、女性的でもない。彼がどちらかといえば女性をテーマとしたとしたら、男性中心主義=ファロス中心主義〔去勢恐怖を社会性の起源に置く考え〕を掘り崩すのに、<女性的なもの>のほうがより近いからであろう。だがそれは女性の「本質」でもなく、むしろ<中性的なもの>である。それは身体的でありながら、切り取られたり変形されたりする「毛髪」という線において最もいきいきと活動するのだ。
 この場はまた、「シルエット」、そしてみずからが活動する空間をみずから作り出すような「線」の「冒険」(ミショー)の場でもある。線は、うちとそとの境界ではなく、むしろそうした区別が生まれるような場であり、たえざる「dé-former(変形的な形成)」が行われる場なのだ。

(以下は既出)