廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

バルト「シューマンを愛する」(1979)(『第三の意味』みすず書房所収)

晩年のバルトの作品として、『明るい部屋』同様、みずからを実験台にするような作品である。彼がシューマンに見出す「純粋な無垢」=「対象なき純粋な苦悩」は、善悪二元論的な対立とも、精神分析的な葛藤とも無縁な、純粋な「自己」だけがあるような状態である。だがこれほどエゴイズムやナルシシズムと遠い状態もない。そもそも主体はひとたび崩れ去っているのだから。しかしその崩壊と呼応して、「解体と分離に脅かされた実在性」が、世界の側に立ち上がる。ひとつのカーニヴァルとして。それが彼の音楽である。純粋なリズムの織物として、葛藤なき無垢のカーニヴァルが、対立や葛藤が大好きな世界を揺るがすのである。

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 メルロ=ポンティセザンヌに、つねに解体に脅かされつつある世界へと身をさらすことによって、「モチーフ」をつかむ「狂気」を見出した。解体されつつある世界の解体の運動に身をまかすことによって、みずからの身体を世界に貸し与えつつ、別のかたちで世界の織物をつなぎ合わせていくのだ。現実態とは、「自然」とはそういうものだ。つねに壊れつつあり、ともに壊れる者たちだけを伴侶とし、その者だけにおのれの意味の暗号を与える。
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制度分析が必要になるのもそうした場である。自然とは、リズムとは、まずは物たちの解体しつつある運動、そしてそれに刺し貫かれる人びとを、蛇行する線によって結び付けることで、かろうじて制度を繋げていくものだからだ。だがこのような自らの身体を賭した実験にひとはいつまで耐えることができるだろうか。