廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

Je me vois voyantと叫ぶ光

Je me vois voyant. 「自分が見るのを見る」ということは、鏡や自画像で自分の目を見ることではなく、見るという行為を見るということであり、ほとんど不可能な行いであるはずである。「自分が見るのを見る」ことと「見えないもの」を見ることの深いつながり。
・このとき鏡像(段階)の解釈も大きく変わっていかなくてはならないはずである。死のまなざしではなく、見ている自分と視線を絡み合わせること、そのためには自己の視線との間に、隠れた「盲点」が出現することと関係するだろう。この盲点こそが、見るという行為を可能にする。
・まなざしはまなざす。「まなざし」と「まなざすこと」の間にある深い深淵、しかしこれは無でも照明でもない、なにか別の過剰な動揺のように思える。あえていえば「叫ぶ光」。
・叫びとは視線と見ることの間の軋みだ。この軋みとともに非人称の「ひと」が「自分が見るのを見る」。
・見るという行為における「音響性」(sonorité)。哲学はそんなものについて語ったことがあっただろうか。
・いわゆる視線恐怖もおそらく「他者」の視線に見られる自分にたいする恐怖ではない、まずは自分が見るとき、何かが見えてしまうことに対する恐怖ではないだろうか。見えるものが見える、ここにも同様の深淵がある。
・見えるものが見える、それは身体が根源的な「ここ」にあるからである。だが「ここ」にあること、それは安らかな住み込みではなく、根源的な「居たたまれなさ」と表裏一体なのか。
・この居たたまれなさが身体を「叫び」の場に変える。叫びが身体を通してみずからを響かせる。
・さらに言えば、この叫びはカオスではない。いわゆる身体技法によって、一定の「スタイル」を持ちうる。このスタイルの存在様態は、上記の「軋みの場」が身体全体、環境全体の布置において、どのような「意味」に生成するかによって変化する。
・この「スタイル」や「意味」とドゥルーズ的「内包性」(ntensité)の差異化、連結も重要だと思うが、これをあくまで「見ること」と結び付けてつぶやきつづけてしまったのは、「触覚的」なもののロマンティシズムに対する軽いいらだちゆえかもしれない。
・触覚的なものこそシステム論的に語ること、そしてそこにこそ「根源的創設」の裂け目を語るべきだと思うが、そうはならず、視覚中心主義に対する触覚の復権になってしまっては、視覚の特権を掘り崩すことにはならないと思うからだ。
・たとえば『眼と精神』は「エロスに溢れた触覚賛美によるデカルトの視覚中心主義」として読まれてきたが、「ラスコー以来」の可視性の「統一性」の問題は、フッサール目的論の残滓として、スルーされてしまってきたように思う。かつての「全体性嫌悪」のゆえであろう。
・もちろんメルロ=ポンティ自身も、この統一性をシステム論的に語っていないのは事実だが、これは実際はローカルで歴史的に限定された小システムを、たえず他のシステムと接続させる「裂け目」、そしてその意味への生成と関係していると思われる。
・それではなぜメルロ=ポンティは、中期言語論のように、視覚や触覚についてシステム論的に語らなかったのか。それは謎であるが、上記のような「裂け目」といった比喩は、おそらくあくまで「人間にとって」のものであるからではないか。
・つまり『眼と精神』の「話者」は、多くの場合、哲学者メルロ=ポンティではなく、「知覚の動物」としての画家やその身体であるからではないか。もちろん「哲学的」「われわれ」がまったく不在であるかどうかは、また別の問題ではあるが。
・「裂け目」なるものは、「知覚の動物」にとっては、実践によって日々乗り越えられているか、あるいは生死にかかわる身体感覚的スタイルの自己変容を迫るものであり、その次元ではじめて「なまの存在」が重要になる、人間の視点からすればそれは「たかが」裂け目にすぎない。
・システム論的に語りえぬことをシステム論的に語るのは、『見えるものと見えないもの』の課題であったろうが、そうした哲学的話者は、「キアスム」の章ではほんのちょっと顔をのぞけているにすぎない。
・「たかが裂け目にすぎない」、これはたとえば医師の上空思考的な言表であり、ときにはそれが必要である。だがそれを生きる主体にとっては、それは裂け目でも分裂でも切断でもない。「なにか耐えがたいあるもの一般」への充実した開けである。
メルロ=ポンティの「たえず一般化しつつある部分的直観」もドゥルーズの方法としての直観も、やはり直観ではあることを忘れてはなるまい。
・「ラスコー以来今日に至るまで、画家は可視性の謎だけを讃えてきた」と言った過激な発言を記したのはメルロ=ポンティだが、「ひとが語り始めて以来、作家は語りうる可能性(dicibilité)の謎だけを讃えた」とすると『口と精神』が書けるか。。。
・直観は本質直観でも神秘的直観だけでもないが、そういうものになりうることを忘れすぎてもまずいだろう。直観なきスタイル、ビッグネームによりかかった、文体だけの批評になってしまう。
ラカンも『意味の論理学』も、じつはすべて治療者の言説と割り切ってしまえば、少しは耐えられる文章になる。これを「批評」と勘違いすると、とんでもない文章が飛び交い、ますます圧殺される人が増えてしまう。
・ この疑問は、たとえばガタリやウリですら、「対象a」のようなマンガとしか思えないものに理論的位置を与えてしまっているあたりから始まっているのだが、実際マンガなのだ、と考えてしまえばどうということはないのかもしれない。
・これはフーコーが「パノプティコンはフィクションだ」というときのフィクション概念とは微妙に違うようにも思われるが、その違いはまた漫画的になりそうなので、差し控えるとして、こうした治療者の発する漫画的モデルが治療価値を持つことには「精神医学的権力」がかかわるかも
・『精神医学的権力』の語るシャルコーシミュラークルは、フィクションであっても「笑えない」のだが、それは『生者たちの統治』以来の主体と真理という苦しい枠があるからか。それに対して対象aは、いわば「面白い」ネタになってしまう。ユベルマンもそこから自由だろうか。
フーコーはイマジネール概念の批判から出発した。臨床ではイマジネールとサンボリックを操作的に使い分けてもよいのかもしれないが、イマジネールなものを概念的に固定してしまうことと、身体性・可視性の固定化は共犯的であり、それは「読みうる」ものとなってしまう。
・この「可読性」のことをあえて上でマンガ的と形容してしまったが、マンガ批評的というほうが正確だろう。イマジネールとサンボリックはつねに混淆しており(クラインの壺などのような綺麗なものでもなく)、「なま」な地として、芸術活動を支えているのかもしれない
・ 「なま」な存在=言語の存在は、言語以前であると同時に、言語だけが遭遇しうる存在である。ここから出発しないとサンボリックの優位は崩れず、言葉遊びとアルトー的叫びだけが残る、そしてそれらを「救ってやる」という学知的ミッションが発動する。
・そうしたシンボリックな暴力救済ミッションも私に不安を与えるが、他方『鏡 空間 イマージュ』もまたその裏面であるということだった。。。