廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

ラングとパロール

1 メルロ=ポンティパロールの共時態と書いて、ソシュール派の失笑を買ったが、彼にとってパロールは、個人的・現在的でありつつ、「厚みを持った現在」において、「聴き手」を創出する制度化のプロセスであり、これに対立するのはラングではなく、歴史文法的な言語の系列化である。
2 ・そして「ラング」は、すでに「制度化」されたものではあるが、それだけでは「コミュニケーション」を作動させず、それ自体のうちに「ずれ」をはらむシステムとして、パロールの「亀裂」をはらむ。当事者にとっては亀裂ではなく、生き生きとした共同性であるということだ。‬
3 ・つまり、ラングはすでに制度化されていると同時に、意味の生成に対しては遅れている。これがシステムのそれ自体に対するずれであるが、このずれを消し去るのは、ラングを再構成する第三者的事後操作ではなく、意味が記号に自己生成するプロセスである。‬
4 ・このプロセスを肯定することは、ラングのそれ自体に対する「過剰さ」を語ることであり、そこに「欠如」や「逆説」(ドゥルーズ)を見るのは、言語がすでに制度化されている地点から見た超越論的仮象にすぎない。‬
5 ・パロールの自己プロセス(いわゆる自発性)を肯定することは、同時にラングの「過剰さ」「二重の襞」に遭遇することであり、それを彼は「なまの存在」=「言語の存在」と呼ぶのである。「差延」があるのは、観念論的な主体に対してだけであり、それを延命させるものでもある。‬
6 ・すべてのパロールは自伝的である(デリダとは異なった意味で)。自伝の主体は「私」ではなくパロールそのものである。またすべてのパロールは動物的である(同上)。動物的なもののカリカチュアとしてしか実現しないとしても(フィクションの起源)‬
7 この「なまの存在」=「言語の存在」をいま素直に「自然」とか「環境」とか呼ぶのはやはり危険である。自然と文化の対立ではなく、「なまの存在」と「制度」の対立で思考すること。‬