廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

先端文化学研究V 幻影肢2

コメントより(抜粋)
・それ自体世界内に属していない直接の経験が世界に内属し、世界を変革しうる仕方で存在しうるために、習慣的身体が存在している。しかしそれは現勢的身体でもある必要がある。二重の身体性。
・現前と不在の中間的存在を「見えるようにする」
・「自分の身体が自分のものと思えない」(離人症、解離)、自我同一性の拡散、「自分が何ものなのか、何をしたいのかわからない」(→ 「ここはどこか、いまナンドキなのか」、トラウマと拡散。→パトナム『解離』、柴山雅俊『解離の構造―私の変容と<むすび>の治療論』(岩崎学術出版社
・夢の中では「現勢的身体」は存在しないのに、私は夢の中にあるか。夢においては「習慣的身体」として「幻影肢」ならぬ「幻影身体」が現れる。→ 渡辺恒夫『夢の現象学・入門』(講談社メチエ)
・私たちは(幻影肢)の沈黙に語り掛けられている。損傷について私たちは前意識的な知を持たされている。欠損の裏面
・「裏面」とは「あること」の裏面
・この「世界」は「私の世界」なのか「みんなの世界」なのか──「間主観性」の問題。→ 私は世界とのかけがえのない関係において「他者たち」=私たちの分身とであう。
・「身体の声を聴く」強く頭を打って記憶があいまいになったとき、自分の記憶と身体的感覚が結び付かなくなる。
・身体の変化によってその人の世界はすでに変わったものになっている。「ない」ものとして「ある」ようにとらえ、世界とのすり合いを、変化をみとめずに、つける。
デカルトとの関係。幻影肢→メルロ=ポンティは『知覚の現象学』第三部で、新しいコギト(我思う)を提出する。それが「沈黙のコギト」である。非人称的な「ひと」が私において考える。
・現前と不在のあいだ。「イップス(=緊張やトラウマで、存在している自分の感覚がプレーヤーに感じられなくなること)」
・言葉で説明できるようなこたえを求めてはいけない。しかしいつかは言語化しなければならない→ 「いまだ沈黙している経験を、表現にもたらすこと」というフッサールの言葉をメルロ=ポンティはしばしば引用する。
・有と無の両義性は、宗教的な文脈での信仰能力につながる→メルロ=ポンティは「無神論実存主義」といわれ、神も「現象」のひとつだと考えるが、他方、「有神論」と「無神論」の区別は皮相だとも考えていた。たとえば「世界がある」ことへの信憑(=信仰)foi」は、たえず「非信憑=不信仰」に脅かされている、と考えるなど。
・眼鏡などの「道具」による身体の拡張。目視せずにあるものを身につけたときにその形状を予期できる。時間の要素はいらない?→ 記憶の問題だけではなく、運動の問題も考える?「未来への開かれ」?(149頁)

時間の問題:幻影肢と抑圧
・「非人称的な時間は流れ続けるが、人格的な時間のほうは膠着したまま」150
・これはたんなる「惰性」ではなく、危機に際して、「私の身体」=「行動」となる(サンテクジュペリの例)=しかしこれは瞬間的でしかない→ これに持続性を与えるのが「芸術」

・「私が悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れ切っているあいだにも、すでに私のまなざしは前方をまさぐり、ぬかりなく何か輝いたものをめざしており、こうして自分の自立した生存を再開している」151

時間の「凝集」(151)

「過去はあたかもわれわれの力が流出していく傷口のようなものとしてとどまる」同じように「わたしたちの身体の無名性は、自由でもあり、隷属でもあり、両者は不可分の関係を持つ」(153)
幻影肢:
「腕の幻影肢とは、抑圧された経験と同じく、まだ過去になりきってしまわない〔なることを決めかねている〕古い現在だ」。
 過去=現在によってすでに押しやられてしまった、かつての現在。いまやそれは「現在」としての性格を喪失し、<現在から見られた対象>になってしまっている。

演習 差異の体系としてのラング(4/25)

第一段落
ソシュールの教え
・記号はひとつずつでは意味しない。
・「そのそれぞれは、意味を表現するというよりは、それ自身と他の記号の間の意味の隔たりをしるしづける」
これをすべての記号に一般化すれば、「ラングは名辞=項なき差異からなる」
より正確には、「ラング内の名辞は、名辞間に現れる差異によって生み出される」

コメント
ソシュールの「言語は名辞なき差異からなる」という言葉の解釈。
一般的解釈:
・「実体から関係(函数)へ」。実体としての意味ではなく、関係としての意味。
・意味はあるシステムによって相対的に決まる。例)色の区別が文化的に違う、という文化相対主義
・相互排除。否定的関係。
→ 平板な関係論。1)システムの変動や創発はどのように起きるのか。2)システムを攪乱したり(病理学)、新たな意味を創出したりする要素(芸術など)はどこにあるのか。

メルロ=ポンティの解釈はこれとどう違うのか。
・「隔たり」(écart, divergence)という用語に注目。「否定」や相互排除ではない「凹み」
・言語が差異の網目からできている、ということよりは、<ある記号は、直接に意味を指し示すのではなく、「他のすべての記号」との隔たり=ずれをマークする。>デリダ差延」「間隔化」
あくまでメルロ=ポンティにとっては、実体的意味ではないような、別の意味の生成をとらえようとする。このことは次の文からもわかる。
「ラング内の名辞は、名辞間に現れる差異によって生み出される」
上記の隔たりこそが名辞を「生み出す」ということ。<構成的>に作動する差異の働きが、ラングというシステムを支えている。

メルロ=ポンティにとってのソシュールの定義の難しさ
・名辞に先立って「意味のコントラスト」がある。
・「コミュニケーションが、語られたラングの全体から、聞き取られたラングの全体に向かうとしたら、言語を学ぶためには言語を知っていなければならない」ということになってしまう。
この文章の意味は?
・外国語の学習や、幼児の言語習得の場面を想定。
・言語システムにおいてすべてが関係的であるとしたら、ひとは言語システム全体を学ばなければ意味を掴めないのか、という反論。言語はやはり<記号と意味>の一対一の関係の加算によって学ばれるのではないだろうか。

メルロ=ポンティの回答。
ゼノンのパラドックスと同様である。動かない矢のパラドックス。→「パロールの使用」によって乗り越えられる。次段落からわかるように、メルロ=ポンティにとっての真の問題は<差異の体系>というあるラングの<全体>と諸部分の関係である。

循環=言語の奇蹟
「ラングはそれを学ぶ者において、みずからに先立つ」「おのれ自身の解読を示唆する」

このことを解明するには、ソシュールが語る「差異の体系」としての「ラング全体」の「全体」の意味を考え直す必要がある(次段落につづく)
参考文献:
メルロ=ポンティ『意識と言語の習得』(みすず)、その第一章「心理学的に見た幼児の言語の発達」では、この文章のもとになるような心理学的・言語学的議論が紹介されている。
「言語活動の獲得とは、ある個人がラングに組み込まれていくことである」(二八頁)
「音素対立の体系が意味へと向かっていく」(同)
「音素体系はいわば<くぼみ>に意味を浮き出させるようなものだからです」(二九ページ)
(いずれもヤコブソンについて。失語症の分析も興味深い)

先端文化学研究V:幻影肢1

幻影肢(p. 145まで)
・生理学的説明:大脳に至る神経の経路上で、ある刺激が、別の刺激にとってかわる。→ 麻酔でもなくならないし、切断手術がなくても現れる。情動にも依存。
心理的説明(疾病失認)。欠損を拒否している。記憶、意志、思い込み。
→ しかし他方では、幻影肢は感受的伝導路を切断すれば消える。

→ 折衷説?代償行為?
メルロ=ポンティの立場。両者の「出会い」の場面(第三者的視点と一人称的視点の出会い)を模索。「世界へ向かう行為の流れ」「行動的環境への志向的活動」
→ メルロ=ポンティは「一人称主義」ではないことに注意!

問い
・「現在と不在とのあいだに中間者を認めない客観的世界の諸カテゴリーから」外にでること(p. 145)
「切断手術を受けた人が自分の脚を感じるその仕方は、あたかも私が目の前にいない友の存在を生き生きと感ずることができる仕方に似ている(146)」
「生活の地平に保持」(p. 147, l. 2)

「欠損の拒否とは、一つの世界へのわれわれの内属の裏面でしかない」(p. 147)
→ ここで「身体」が世界へ向かう「開かれ」の担い手となる。

「病人は自分の損傷を否認するまさにそのかぎりで、その損傷を知っている」(世界内存在の逆説)(p. 148)

「習慣的身体」(le corps habituel)と「現勢的身体」(le corps actuel)
→「非人称的身体」

先端文化学演習1 イントロ 4/17

先端文化学演習I
メルロ=ポンティの著作をできるだけフランス語原文に近接しながら読む。

・テクスト:Maurice Merleau-Ponty, « Le langage indirect et la voix du silence », Signes, Paris, Gallimard, 1960./
英訳:”Indirect Language and the Voices of Silence”, The Merleau-Ponty Reader, Northwestern University Press, Evanston, Illinois, 2007.
日本語訳は『シーニュ1』みすず書房、および『間接的言語と沈黙の声』(メルロ=ポンティコレクション)みすず書房に所収。翻訳は参照してよいがやや古い。
やりかた
・一回に一段落(一ページくらい)しかすすまない。とにかくフランス語原文、または英訳を解剖し、微妙な一文(複雑な文、簡潔すぎて意味がとりにくい部分)に立ち止まり、その意味を考え、可能ならば応用可能性を引き出していく。
・一段落を受講者で分担し、数行ずつ解読していく。
「間接的言語と沈黙の声」
・主著『知覚の現象学』(1945)でメルロ=ポンティは身体が世界へと向かう運動に焦点を当て、当時の心理学を活用しながら、あらたな現象の世界をとりだそうとした。
・そのなかでもすでに「表現としての身体」が論じられ、言語を身振りとして捉える視点が打ち出されていた。意味を生成させる初源的言語のことを彼はparole parlante(語る言葉)と呼び、すでに「制度化」されてしまった日常言語であるparole parléeと対立させていた。
他方、そこでもすでにソシュールが言及される。ソシュールの「ラング」(言語体系)の考えが、メルロ=ポンティの「語る主体」の哲学と呼応するというのだ。

その後1950年代に入るとメルロ=ポンティは「感覚的世界と表現の世界」の関係についての考察を始める。「初源的言語」と、すでに「制度化された言葉(parole parlée)」はどのような関係にあるのか、それが彼の問いである。
つまり私たちは「無からex nihilo」から出発して語るわけではなく、ことばがすでに「沈殿」(フッサール)している世界で語る。そのときことばを学ぶものは、ある意味受動的たらざるをえない。この文化的沈殿の受動性と、「初源の言語」の関係を探るのがこの論文のひとつの目的である。文化的な言葉の「下」(あいだ?)にどうやって初源の「沈黙」を見出せばよいのか。いやこの沈黙が初源の言語であるとしたら、ふつうのことばのほうがむしろ沈黙(記号によるメッセージの交換)にすぎないのではないか….

背景:
サルトル「文学とは何か」(いわゆるアンガジュマン文学、政治参加の文学)の批判。
マルローの「想像的美術館」の批判。ただし「首尾一貫した変形(déformation cohérente)」という考え方を借用。マルローは、近代絵画=個人の解放と考えた。メルロ=ポンティはそのような「宗教芸術」対「近代個人主義」という対立が皮相なものであることを指摘。個人主義の称揚は全体主義の裏側にすぎない。

メルロ=ポンティ思想の流れのなかでは、ソシュールを利用して、すでに沈殿した言語システムや文化システムに身をおいて、どのように創造的なことばを語りうるか、という問題がある。政治的にも、革命後の社会が、革命と同時に「制度化」してしまうという状況をどう受け止めるかという問題がある。

絵画(見えるもの、見させるもの)と言語(語るもの、語らせるもの)の関係?身体と概念の関係→「間接的言語」はそのどちらでもない。

先端文化学研究Vイントロ4/16

モーリス・メルロ=ポンティ紹介

メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は多くの顔を持ちながら、現代の思想に生き続けている。
 主著『知覚の現象学』は今も読み継がれ、さまざまな領域(認知心理学看護学、精神医学、教育学、社会学、人類学)などに影響を与えている。彼の文章が飽きられることなくーー派手な装いはないがーーひそかに読み継がれているのは、その文章のもつ「豊饒な曖昧さ(両義性)」ゆえにあるだろう。時代ごとに彼の思想の新たな側面が掘り出される。「古典」というよりは、まさに「現代」を切り取るのに有益な文章として甦り続けるのだ。
 戦後すぐに彼はサルトルとともに「フランス実存主義」の一翼をにない『現代(Les Temps Modernes)』誌の事実上の編集者として、哲学と政治、文学、芸術などを交差させるような場を作り出していた。また身体や感覚的なものの復興をとなえながら、当時の人文・自然科学にもたえず眼を配っていたのも忘れてはならない。

メルロ=ポンティの「思想」
 そんな彼も、1961年に『眼と精神』や、『見えるものと見えないもの』の遺稿を残して急死した以後は、反実存主義的な時代風景によって読まれなかった時期もあった。いわゆる構造主義ポスト構造主義ポストモダンといった思想のゆえである。だが構造主義の始祖と言われるソシュールをはじめて思想的にとりあげたのはメルロ=ポンティであった。デリダ現象学の「脱構築」は、メルロ=ポンティフッサールを批判的に延長しようとした試みなしにはありえなかった。フッサールのテクストのなかに、いわゆる「フッサール」の先を行くような動きを読み取ることがメルロ=ポンティの課題であったからだ。ドゥルーズの思想は、ベルクソンの思想の読み直しであるが、そういうふうにベルクソンを刷新することをうながしたのもメルロ=ポンティであった。ドゥルーズフランシス・ベーコン『感覚の論理学』や『シネマ』は、メルロ=ポンティセザンヌやクレー論を、時代に合わせて焼き直したようなものにも思われる。また「ポストモダン」概念を打ち出したリオタールは、メルロ=ポンティ直系の弟子である。フーコーもまた、初期にメルロ=ポンティの多大な影響を受け、その影響は後の思想にも生き続けている。また「スタイル」という概念を打ち出して、ロラン・バルトの批評にも多くの影響を与えていることは鷲田清一が『メルロ=ポンティ』(講談社)で示したとおりである。
 だからいわゆる「現代思想」を理解するのに、メルロ=ポンティの思想を知ることははなはだ有益である。「現代思想」がビックネームの党派的な擁護に堕してしまったり、死体解剖的に研究対象になってしまいはじめたりした時期に、ふたたびメルロ=ポンティが読み直され始める。認知心理学アフォーダンスオートポイエーシス論)が、メルロ=ポンティの身体化(embodiement)の思想を甦らせる。看護やケアの思想に、メルロ=ポンティの思想がインスピレーションを与える(臨床哲学)。男性的なサルトルと、フェミニズムの始祖ボーヴォワールのあいだにいたメルロ=ポンティの身体論に、ジェンダー論のバトラーが接近する(フェミニズム現象学)。レヴィナス、ミシェル・アンリといったフランス現象学の流れのなかで、メルロ=ポンティの「肉(chair/flesh)の思想が議論の中心になる。いまメルロ=ポンティをどう読み直せばよいのか。思いつき的にメルロ=ポンティの思想の豊かさを枚挙してみよう。

メルロ=ポンティ的な世界に入り込むための10の断片
1)身体論と「肉」
メルロ=ポンティの身体論はたんに、科学によって忘れられた身体を復興するものではなく、主体と客体の「あいだ」にひろがる豊かな領域を開拓しようとするものである。それは「言語」や「文化」にも息づいており、それが晩年に「肉」と呼ばれるものである。肉とは、カオスでもあり、さまざまな多様化(差異化)を作り出すものでもあるような不思議な原理である。
2)肉と鏡:メルロ=ポンティは晩年に「肉とは鏡の現象である」という。そしてそこでは「鏡像が実像より現実的である」。これはすなわち、自分が自分を見る、というナルシス的な状況であるのみならず、他者が「夢の中のように」増殖している世界である。「自己」はそこではむしろ「他者の他者」になる。こうしてメルロ=ポンティが描こうとしているのは、「現実と想像」「覚醒と夢」が「絡み合っている」ような世界の現実性である。
3)「間接的」思想。メルロ=ポンティは「ずれ」「ぶれ」「レリーフ」といった言葉に敏感である。物たちのあいだから「ななめに」わきでてくるような「意味」の「触知」にこそ、彼の感性は息づいている。観念論は「意味の直接的把握やその意識への現前」(デリダが現前の形而上学と呼んだもの)を説くが、メルロ=ポンティはあくまで「世界のさまざまな要素が、重なり合ったり、拮抗したりしながら、おのずと形態や意味を作り出していく瞬間」を「捉え直そう」とするのだ。科学のように、現象を要素の集合態ととらえるのでもなく、観念論のように「本質」のみを統握するのでもない第三の領域がメルロ=ポンティの研究対象なのだ。
4)他者との「共存と拮抗」。メルロ=ポンティは「他者との距離をもった接触」を説く思想家である。一方で幼児の世界のように、他者と自己とが「間身体的」に共鳴する世界がある。だが他方、私たちの身体はどうしようもなく文化的に「制度化」されていて、自己と他者は分かたれている。メルロ=ポンティはこのどちらもが真理となるような第三の立場を模索する。
5) 運動性と時間性。メルロ=ポンティは身体の内側から分泌されるような「身体の時間」「身体の記憶」を追求し続ける。身体とは内的な運動性(みずからを動かし、みずからを感じ取る)を持ち、それと相関的に「世界の運動」「世界の可能性」を現させるようなものである。これが「原-歴史」でもある。
6)言語の創発性。私たちはすでにある言語的世界、文化的世界に投げ込まれている。しかしこの世界でも「なにか新しいことを語り出すこと」ができる。言語的世界はつねに閉じられようとしながら、そのとじ目はつねにほつれていて、自己完結しないのだ。文学がそのモデルである。
7) 私たちが有限な身体を世界にさらしているかぎり、私たちの意識も「傷つきうる」ものである。だが身体=意識はつねにみずからの「運動性」によって、この傷が豊かなものとして働きうるような、新しい行為の「地平」を切り開くことができるものでもある。それは新しい「自己」の発明でもある。
8) 絵画モデル。彼の鏡像的な身体論と言語論・文化論を媒介するのが「絵画論」である。絵画は「沈黙の言語」として、身体的な世界と共鳴する。それは断片的であっても、つねに「世界全体」を表現する。絵画をモデルに言語や歴史を考えることが彼の課題のひとつであった。相対的、部分的なものの持つ絶対性。
9) 哲学と政治。彼の思想はつねに政治と結び付いている。初期は、サルトルと共闘しながら、マルクス主義の最良の部分を引き出そうとする「非共産主義的左翼」の立場を取る(『ヒューマニズムとテロル』)。だがソ連強制収容所朝鮮戦争への介入などを経て、サルトルと袂を分かち、いわゆる「中道的」な「非共産主義(acommunisme)」の立場を取る。一貫しているのは「弁証法」の運動を円環的に閉じてしまわず、たえざる「ずれ」の創造性や「開かれ」を温存することである。内側から外に開かれ、内側をつねに多元化するような「制度」の真理を実現しようとするのだ。
10)自然への感性。「動物や子どもを劣ったものと考えないこと」、これが彼の基本的立場である。動物的なものや幼児的なものとの接続の経験は、あらたな創造である。人間の思考を頂点とする階層的な思考を解体することが彼の課題である。この延長でかれは独自の「自然」論、生命論を模索している。
参考文献:
メルロ=ポンティ読本』法政大学出版局
メルロ=ポンティ哲学者事典』別巻、「メルロ=ポンティ」の項(入門)
『現代フランス哲学に学ぶ』戸島貴代志・本郷均、放送大学教育振興会(わかりやすい)
メルロ=ポンティ廣松渉・港道隆、岩波書店(港道論文がよい)
『沈黙の詩法:メルロ=ポンティと表現の哲学』加國尚志(専門書)
『自然の現象学メルロ=ポンティと自然の哲学』加國尚志(専門書)
『表現としての身体:メルロ=ポンティ哲学研究』末次弘(哲学プロパーの議論)
メルロ=ポンティ鷲田清一講談社
メルロ=ポンティの思想』木田元岩波書店(初期の代表的な研究書なのでまとめも多い)
メルロ=ポンティ加賀野井秀一白水社

先端文化学研究Vイントロ4/16

モーリス・メルロ=ポンティ紹介

メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は多くの顔を持ちながら、現代の思想に生き続けている。
 主著『知覚の現象学』は今も読み継がれ、さまざまな領域(認知心理学看護学、精神医学、教育学、社会学、人類学)などに影響を与えている。彼の文章が飽きられることなくーー派手な装いはないがーーひそかに読み継がれているのは、その文章のもつ「豊饒な曖昧さ(両義性)」ゆえにあるだろう。時代ごとに彼の思想の新たな側面が掘り出される。「古典」というよりは、まさに「現代」を切り取るのに有益な文章として甦り続けるのだ。
 戦後すぐに彼はサルトルとともに「フランス実存主義」の一翼をにない『現代(Les Temps Modernes)』誌の事実上の編集者として、哲学と政治、文学、芸術などを交差させるような場を作り出していた。また身体や感覚的なものの復興をとなえながら、当時の人文・自然科学にもたえず眼を配っていたのも忘れてはならない。

メルロ=ポンティの「思想」
 そんな彼も、1961年に『眼と精神』や、『見えるものと見えないもの』の遺稿を残して急死した以後は、反実存主義的な時代風景によって読まれなかった時期もあった。いわゆる構造主義ポスト構造主義ポストモダンといった思想のゆえである。だが構造主義の始祖と言われるソシュールをはじめて思想的にとりあげたのはメルロ=ポンティであった。デリダ現象学の「脱構築」は、メルロ=ポンティフッサールを批判的に延長しようとした試みなしにはありえなかった。フッサールのテクストのなかに、いわゆる「フッサール」の先を行くような動きを読み取ることがメルロ=ポンティの課題であったからだ。ドゥルーズの思想は、ベルクソンの思想の読み直しであるが、そういうふうにベルクソンを刷新することをうながしたのもメルロ=ポンティであった。ドゥルーズフランシス・ベーコン『感覚の論理学』や『シネマ』は、メルロ=ポンティセザンヌやクレー論を、時代に合わせて焼き直したようなものにも思われる。また「ポストモダン」概念を打ち出したリオタールは、メルロ=ポンティ直系の弟子である。フーコーもまた、初期にメルロ=ポンティの多大な影響を受け、その影響は後の思想にも生き続けている。また「スタイル」という概念を打ち出して、ロラン・バルトの批評にも多くの影響を与えていることは鷲田清一が『メルロ=ポンティ』(講談社)で示したとおりである。
 だからいわゆる「現代思想」を理解するのに、メルロ=ポンティの思想を知ることははなはだ有益である。「現代思想」がビックネームの党派的な擁護に堕してしまったり、死体解剖的に研究対象になってしまいはじめたりした時期に、ふたたびメルロ=ポンティが読み直され始める。認知心理学アフォーダンスオートポイエーシス論)が、メルロ=ポンティの身体化(embodiement)の思想を甦らせる。看護やケアの思想に、メルロ=ポンティの思想がインスピレーションを与える(臨床哲学)。男性的なサルトルと、フェミニズムの始祖ボーヴォワールのあいだにいたメルロ=ポンティの身体論に、ジェンダー論のバトラーが接近する(フェミニズム現象学)。レヴィナス、ミシェル・アンリといったフランス現象学の流れのなかで、メルロ=ポンティの「肉(chair/flesh)の思想が議論の中心になる。いまメルロ=ポンティをどう読み直せばよいのか。思いつき的にメルロ=ポンティの思想の豊かさを枚挙してみよう。

メルロ=ポンティ的な世界に入り込むための10の断片
1)身体論と「肉」
メルロ=ポンティの身体論はたんに、科学によって忘れられた身体を復興するものではなく、主体と客体の「あいだ」にひろがる豊かな領域を開拓しようとするものである。それは「言語」や「文化」にも息づいており、それが晩年に「肉」と呼ばれるものである。肉とは、カオスでもあり、さまざまな多様化(差異化)を作り出すものでもあるような不思議な原理である。
2)肉と鏡:メルロ=ポンティは晩年に「肉とは鏡の現象である」という。そしてそこでは「鏡像が実像より現実的である」。これはすなわち、自分が自分を見る、というナルシス的な状況であるのみならず、他者が「夢の中のように」増殖している世界である。「自己」はそこではむしろ「他者の他者」になる。こうしてメルロ=ポンティが描こうとしているのは、「現実と想像」「覚醒と夢」が「絡み合っている」ような世界の現実性である。
3)「間接的」思想。メルロ=ポンティは「ずれ」「ぶれ」「レリーフ」といった言葉に敏感である。物たちのあいだから「ななめに」わきでてくるような「意味」の「触知」にこそ、彼の感性は息づいている。観念論は「意味の直接的把握やその意識への現前」(デリダが現前の形而上学と呼んだもの)を説くが、メルロ=ポンティはあくまで「世界のさまざまな要素が、重なり合ったり、拮抗したりしながら、おのずと形態や意味を作り出していく瞬間」を「捉え直そう」とするのだ。科学のように、現象を要素の集合態ととらえるのでもなく、観念論のように「本質」のみを統握するのでもない第三の領域がメルロ=ポンティの研究対象なのだ。
4)他者との「共存と拮抗」。メルロ=ポンティは「他者との距離をもった接触」を説く思想家である。一方で幼児の世界のように、他者と自己とが「間身体的」に共鳴する世界がある。だが他方、私たちの身体はどうしようもなく文化的に「制度化」されていて、自己と他者は分かたれている。メルロ=ポンティはこのどちらもが真理となるような第三の立場を模索する。
5) 運動性と時間性。メルロ=ポンティは身体の内側から分泌されるような「身体の時間」「身体の記憶」を追求し続ける。身体とは内的な運動性(みずからを動かし、みずからを感じ取る)を持ち、それと相関的に「世界の運動」「世界の可能性」を現させるようなものである。これが「原-歴史」でもある。
6)言語の創発性。私たちはすでにある言語的世界、文化的世界に投げ込まれている。しかしこの世界でも「なにか新しいことを語り出すこと」ができる。言語的世界はつねに閉じられようとしながら、そのとじ目はつねにほつれていて、自己完結しないのだ。文学がそのモデルである。
7) 私たちが有限な身体を世界にさらしているかぎり、私たちの意識も「傷つきうる」ものである。だが身体=意識はつねにみずからの「運動性」によって、この傷が豊かなものとして働きうるような、新しい行為の「地平」を切り開くことができるものでもある。それは新しい「自己」の発明でもある。
8) 絵画モデル。彼の鏡像的な身体論と言語論・文化論を媒介するのが「絵画論」である。絵画は「沈黙の言語」として、身体的な世界と共鳴する。それは断片的であっても、つねに「世界全体」を表現する。絵画をモデルに言語や歴史を考えることが彼の課題のひとつであった。相対的、部分的なものの持つ絶対性。
9) 哲学と政治。彼の思想はつねに政治と結び付いている。初期は、サルトルと共闘しながら、マルクス主義の最良の部分を引き出そうとする「非共産主義的左翼」の立場を取る(『ヒューマニズムとテロル』)。だがソ連強制収容所朝鮮戦争への介入などを経て、サルトルと袂を分かち、いわゆる「中道的」な「非共産主義(acommunisme)」の立場を取る。一貫しているのは「弁証法」の運動を円環的に閉じてしまわず、たえざる「ずれ」の創造性や「開かれ」を温存することである。内側から外に開かれ、内側をつねに多元化するような「制度」の真理を実現しようとするのだ。
10)自然への感性。「動物や子どもを劣ったものと考えないこと」、これが彼の基本的立場である。動物的なものや幼児的なものとの接続の経験は、あらたな創造である。人間の思考を頂点とする階層的な思考を解体することが彼の課題である。この延長でかれは独自の「自然」論、生命論を模索している。
参考文献:
メルロ=ポンティ読本』法政大学出版局
メルロ=ポンティ哲学者事典』別巻、「メルロ=ポンティ」の項(入門)
『現代フランス哲学に学ぶ』戸島貴代志・本郷均、放送大学教育振興会(わかりやすい)
メルロ=ポンティ廣松渉・港道隆、岩波書店(港道論文がよい)
『沈黙の詩法:メルロ=ポンティと表現の哲学』加國尚志(専門書)
『自然の現象学メルロ=ポンティと自然の哲学』加國尚志(専門書)
『表現としての身体:メルロ=ポンティ哲学研究』末次弘(哲学プロパーの議論)
メルロ=ポンティ鷲田清一講談社
メルロ=ポンティの思想』木田元岩波書店(初期の代表的な研究書なのでまとめも多い)
メルロ=ポンティ加賀野井秀一白水社

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フランス思想をフランス語(英語)でたのしむ

先端文化研究とフランス思想研究。メルロ=ポンティを中心に、さらに読み進んでいきます。原則としてフランス語原文を参照しながら、ゆっくりとゆっくりと読むことにします。フランス思想そのものに関心のある人は、英訳による参加もみとめます。フランス語の読解能力を深めたい人の参加も認める。フランス語を平行して学習する人も認める。とにかく精読したいので、数行ずつ、1頁ずつすすむことから始めますので、フランス語に自信のない人もおそれずに参加してください

現代文化について深く考え、論文を仕上げるには、欧文を直接読解することが不可欠である。単語レベルでも確認することが必要です。原則としてフランス語を中心にしたいですが、英訳や邦訳ももちろん参照して下さい。芸術論と晩年の思想を中心とする予定です。

AC64102 先端文化学演習I
1.5 単位, 2・3 年次, 春ABC 火3
廣瀬 浩司
授業概要
[身体・感性文化論演習] : からだの感覚は、文化とどのような関係にあるのか、基本的な文献を講読しつつ、ひとつひとつ丁寧に考える力をつける。
備考
AC32802と同一。
授業形態
演習
授業の到達目標及びテーマ
現代文化研究とフランス思想研究。メルロ=ポンティを中心に、フランス思想のテクストを読む。原則としてフランス語原文を参照しながら、ゆっくりとゆっくりと読むことにしたい。フランス思想そのものに関心のある人は、英訳による参加もみとめる。フランス語の読解能力を深めたい人の参加も認める。フランス語を平行して学習する人も認める。とにかく精読したいので、数行ずつ、1頁ずつすすむことから始めますので、フランス語に自信のない人もおそれずに参加してください
キーワード
メルロ=ポンティ,デリダ
授業計画
現代文化について深く考え、論文を仕上げるには、欧文を直接読解することが不可欠である。単語レベルでも確認することが必要です。原則としてフランス語を中心にしたいですが、英訳や邦訳ももちろん参照して下さい。言語論、芸術論を中心とする予定です。さしあたってメルロ=ポンティメルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』1を精読することから始めます。
第1回 イントロダクション
第2回 メルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』1
第3回 メルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』2
第4回 メルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』3
第5回 メルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』4
第6回 メルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』5
第7回 討論
第8回 テクスト2
第9回 テクスト2の2
第10回 テクスト2の3
第11回 討論
第12回 テクスト3
第13回 テクスト3の2
第14回 テクスト3の3
第15回 まとめ
フランス思想などの予備知識はいりませんが、現代の文化、芸術、言語論についての関心がないとおもしろくないかもしれません
評価方法・基準
人数によるが、原則として 授業参加、発表(五〇%)、まとめ的なレポート(五〇%)
参考文献
プリントで配布します。フランス語原文は配布、英訳は希望により配布。邦訳も参照してよいですが配布はしません。
1. Merleau-Ponty,Signes, Gallimard
2. Merleau-Ponty,The Merleau-Ponty Reader, Northwestern University Press;
3. メルロ=ポンティ,『シーニュ1』(みすず書房)
4. メルロ=ポンティ,『間接的言語と沈黙の声』(みすず書房メルロ=ポンティコレクション)
5. 松葉祥一、本郷均、廣瀬浩司編,『メルロ=ポンティ読本』(法政大学出版局)

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