廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

デリダ「歓待について」まとめだけ

『歓待について』
問い:歓待とは、本来自己が他者を無条件に受け入れることである。だが他方では、難民や移民を受け入れるにあたっては、さまざまな「条件」が付けられている。そして移民や難民に対する「アレルギー」反応が出た時代においては、「不法移民」を庇護することも「不法」であると言われたこともある。90年代のヨーロッパがそうだった。現代も状況が改善していないとしたら、どうすればよいのだろうか。「歓待」という「出来事」を起こすことはどのように可能なのだろうか。
・ cf. hospitality : hospitality : hotel, hospice, hospital..「他者や異邦人、旅人を無条件に受け入れること。しかし語源的にはhostis(⇒hostility)、つまり敵という意味も含む。

可能な回答:
1)フランスの「寛容」の伝統。フランスという国家のアイデンティティを前提とした上で、いわば「上から」、ある条件の下に他者を受け入れること。
2)国際法の整備。いまだ「来るべきもの」。国家の論理に基づく、さまざまな条件付け。「内戦」状態に対する「介入」の困難さ。

デリダ「歓待がなければ文化もない」:無条件の歓待(法の外の原理)と条件付の歓待(国際法など)の間の矛盾を限界まで押し詰めた上で、最後にそれらが同時に起きるような「出来事」が法を改善させることを追求。

歓待の系譜
1)宗教的な歓待。
・『旧約聖書』ロトの逸話。客人(神の使い)を守るため、ソドムの男に娘を差し出す。
→ 家族的な愛よりも「歓待」が優先される。
イスラムにおけるアブラハム(イブラーヒーム)の歓待(引用)
:歓待はアイデンティティを打ち壊す。いや、アイデンティティ以前に、すでに迎え入れてしまっている。
レヴィナス:「主体とは人質である」「自己性とは人質だ」
自己が生まれる場において、他者に包囲される。自己がよそ者となるほどに。
このような他者に「応答」(response)する「責任(responsability)」すること。

このような「絶対的歓待」は本質的に危険をはらむ。主人が客人=よそ者となる危険
cf. host : 主人=客人。
→ この危険が「歓待は条件付けられなければならない」という動機付けとなる。一神教的伝統においては、それが政治にからめとられていく。
デリダ:この危険をチャンスに変えること。みずからを発明し直すこと。

2)都市の歓待
ギリシャ都市国家間の契約。互酬的・相互的。
⇒ 集団間の契約として、身元がしっかりした人しか受け入れない、という逆説。⇒ 条件付歓待の始まり。政治的な事由のない「無国籍者」は該当しない。
デリダの問い:「強制送還なき、同化なき庇護権」を国際法に書き込み、新たな歓待の場を開くにはどうすればよいのか

歓待のアポリア(二律背反、袋小路)
無条件の歓待:「到来するもの」(arrivant)にイエスと言うこと、「イエス、イエス」と言うこと。
⇒ しかし、これが「条件付の歓待」を呼び起こしてきてしまった歴史がある。「移民の波を統御する」(フランスの大臣の言葉)。不法移民の排除、よき移民の教育(言語や技能の修得)。
さてどうすればよいのか。条件的な歓待が現実的?無条件の歓待をユートピアとして考える?
ヒント:
1)無条件の歓待は法を越えたもの。なのに悪しき法を生み出してしまう。=無条件の歓待の本質的な「倒錯の可能性」。条件付の法の中に、絶対的歓待を書き込めないか。これを新たな国際法の改善に役立てられないか。
2)カント「人間愛なら嘘をついてもよいという誤った権利」
客人を追って来た者に対して、「客人はいない」と嘘をついてもよいか。
⇒ ダメ。誠実さ、道徳的な掟の尊重は社会の基礎にある。⇒ 「隠す権利」の排除。「黙っている権利の排除」。⇒ 道徳的な法の尊重=警察的な治安の網目の導入。⇒ 道徳は尊重されるが、歓待は破壊されてしまう。
出口なし???
内と外との境界線において、主人と客人が逆転し、絶対的な歓待が、絶対的なものでありつつ、法の中に書き込まれていく瞬間があるのではないか。無条件の歓待と条件付の歓待が両立することは不可能だ。だが、不—可能なもの(im-possible)は起きるのだ。外から入る客人はすでに内におり、内部の主人は「あたかも外から来たかのようにして、中から入る」。内部の内部に外部があり、外部の外部に内部が放り出される。そんな「瞬間」いや「瞬間なき瞬間」があるのではないか。
参考文献
デリダ『歓待について』(産業図書)
デリダ『言葉にのって』(ちくま学芸文庫)(歓待についての対談所収)
ルネ・シェレル『歓待のユートピア』(現代企画室)