廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『後期フーコー──権力から主体へ』自分まとめ

『後期フーコー──権力から主体へ』青土社、2011年3月、総頁341頁。
 本書は、従来権力批判あるいは管理社会論の批判者として解釈されていたミシェル・フーコーの解釈を刷新し、晩年のフーコーの思想が「真理の体制の系譜学」という初期以来一貫した哲学的に貫かれていたこと、そしてこの問題が晩年にどのように深められたかを、メルロ=ポンティ現象学的な制度の哲学との関係において解明することにある。
 まず「はじめに」では、権力論と主体論との間に断絶を見るドゥルーズの解釈を批判するため、「行為する身体とその自由」「(メルロ=ポンティ的な意味での)可視性」「限界と鏡」等の主題を強調することで、権力論の肯定的な側面を浮き彫りにする。権力vs反権力、支配vs抵抗という図式ではフーコーは読めないこと、これはメルロ=ポンティマルクス主義批判や制度論を直接に継承するものである。とくにドゥルーズに依拠したフーコー解釈の限界が露呈される、
 そのうえで第一章では、『精神医学の権力』という講義を詳細に読解し、シャルコーの患者達の造形的な身ぶりとそれに対する医者の応答が、医者—患者関係において、現実の二重化という、真と偽の対立を越えた関係を制度化していることを明らかにする。
 続く第二章では、この分析が「出来事としての真理」という新たな真理論に繋がることを指摘したうえで、反精神医学や脱精神医学がこの制度の現実の二重化という主題を捉えきれなかったことを具体的に示し、合わせてフェリックス・ガタリの制度分析との関係をも明確化する。
 第三章では、『主体の解釈学』の読解に移り、まず知と権力と主体の三つの軸の交差点に「経験の源」という主題が置かれていることを指摘する。そのうえでデリダとの論争を再検討し、「自己主体化」という主題が重要な役割を演じていることを、セネカマルクス・アウレリウスについての分析の読解をもとに明らかにする。
 第四章では、この自己主体化における「生の技法」「作品としての生」という考えを検討し、それが「エートス(主体の行動や存在の様態)の制作」という主題に結びつくことを、デリダハイデガー批判などと対比しながら明らかにする。
 第五章では、晩年における真理の陳述の問題を、パレーシア概念の分析を検討することで明らかにする。そして「エートス的差異化」という作業が政治的なものとの接続において重要であること、そしてそれが経験の位相の重層性を形作ることを示す。
 第六章では、初期のカント『人間学』注釈から晩年の「啓蒙とは何か」読解までを再検討し、上記の制度や現実の問題系と、カント的な問題系との斜行的関係を明らかにする。そのうえで晩年の「私たち自身の存在論」と呼ばれるものが、彼がどのように特殊的知識人として自己を作品化したかを解明する手がかりとなることを示す。