廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

「真理の政治に向けて──ミシェル・フーコーの生体権力論」『思想』2013.2

「真理の政治に向けて──ミシェル・フーコーの生体権力論」
 本稿は、前掲書『後期フーコー』を踏まえつつ、とりわけ「真理を現出させる手続」の研究が、後期フーコーの政治哲学においてどのように重要であるかを整理することによって、現在広く議論されている「生権力(本稿では「生体権力」と訳している)」の概念の意義を再検討しようとするものである。
 まず「生体権力」の概念は、邦題『監獄の誕生』において提唱された規律権力の概念と補完的な役割を果たし、前者のミクロな分析をマクロな次元へと拡張することを目指すものであることが明らかにされる。このことは、歴史哲学から生命哲学への移行を示すものではなく、むしろ一八世紀後半における「生きた歴史性」の登場のプロセスを捉えようとするものである。
 『安全・領土・人口』という講義では、この問題が「人口=住民(population)」の「自然性」という考えをもたらしたのが、一八世紀以降のポリティカル・エコノミーであったことが明らかにされる。それは、従来の自然と人工の対立を越えた次元において、現実態を直に統治するような、「安全の装置」の設定を目指すものであり、そこに自由に振る舞う個人の創出も組み込まれているのである。
 さらに重要なのは、この「生きた歴史性」「人口の自然性」が「真理の体制」と呼ばれるものと結びついていることである。真理の体制とは、言説と実践の結合体として、言説の歴史的な知解性を構成するとともに、諸実践を真と偽の対立へと組み込むものである。このような真理の体制が、市場の自由主義的な統治や、法的な制度と関係する様態を分析することが、重要なのである。したがってこの講義は、新自由主義の外的な批判ではなく、「人口=住民群」の能動的な行動や、その行動を自明なものとする諸制度などによって形作られる真理の体制の相対化である。
 最後にこの「真理の体制」の問題が、1970年以来のコレージュ・ド・フランスでの講義全体を貫く哲学的主題であったことが明らかにされる。それは、ニーチェに対する読解に基づきながら、真理に依拠することなく真理の歴史、真と偽の対立のシステムを記述することを目指す試みなのである。