廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『知覚の哲学』第一章「知覚の世界と科学の哲学」

第一章 知覚的世界と科学の世界
問い:
・科学を否定することなく、科学(技術)が自足してしまうことを防ぐこと
・科学は近似的な認識であって、「出来事の不透明さ」(世界の厚み)は残り続けること。
・現代の科学そのものが、こうした科学の自足を疑問視しはじめていること(相対性理論、動物行動学、心理学
「絵画、詩、そして哲学は、事物・空間・動物、そして知覚の野(領野)に現れる人間、つまり外部から知覚された人間さえも、これらの知的営みにとって周知の領分に引き入れる」(24)
レジュメ、コメント
1) 感官(sense)と生命の働き:これはたんに自明な世界ではなく、「多大の時間、努力、教養を必要とする」(17)。
コメント:
a) 感官(sense)。メルロ=ポンティにおいては、senseとはまた「方向」(時間的・空間的なベクトル)も含んでいる。
b) 「現象学は、学説や大系である前に運動。バルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、たえざる辛苦である。おなじ種類の注意と驚異とをもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれ出る状態(in statu nascendi)においてとらえようとする」(PP〔『知覚の現象学』序文のおしまい〕。
c) メルロ=ポンティが「知覚」と呼ぶものは、人間が生きてあることの基本的なあり方(25)

2) デカルトとの対決。感覚的なものをすべて疑い、純粋な本質を見て取る知性のまなざし。「知覚とはまだ混乱している科学の萌芽にすぎない」(21)。
コメント:本質を見て取る働き(フッサール「本質直観」)を反省と呼ぶ。
「反省とは、反省的でないものについてのかぎりない反省である」

3) 科学を否定することではなく、科学に、最新科学を考慮しながら、問いを立てること。「具体的なもの、つまり「可感的なものは、科学にたいして終わりなき解明という任務を割り当てます」(23)出来事の不透明さは残る。絶対的な観察者はない。
補足:『知覚の現象学』序文より
・ 「世界内(属)存在」「人間はいつも世界内に在り、世界のなかでこそ人間はおのれに触れるのである」。
・ 「現象学的還元とは、世界を前にしての<驚異>である」(『知覚の現象学』序文VIII)。さまざまな超越が無動機に湧出するために一歩後退する。そのとき私たちと世界のひそかな結びつきが見えてくると言う逆説。
・ 「現象学的な還元の最大の教訓は、完全な還元は不可能だということ」。
・ 「哲学者とは、永遠の開始者(初心者)なのである」「哲学とは、自分自身の出発点がたえず更新されていく経験である。」
・ 「まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋な表現へともたらすべきである」(フッサール)。本質とは、経験のもつ生き生きとした一切の諸関係をともなうはずであり、海底から引き上げられた網が、ぴちぴちした魚や海藻をともなってくるかのようだ」。
・ 言語的な本質も「沈黙」の上に立っている=語が意味することではなく、モノが言おうとすることでもある」(『知覚の現象学』15)
・ 「真の哲学とは、世界を見ることを学び直すことである」(『知覚の現象学』p. 24)。現象学の未完結性。これは挫折ではなく、世界の神秘と理性の神秘を示すこと。