廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

『知への意志』p. 25-35を廻るメモ

『知への意志』p. 25-35を廻るメモ
1. この節の題名は「言説の扇動」(L’incitation aux discours)とあるが、inciterとは「扇動」というよりは、「慫慂すること」「うながしてさせること」であって、強制的、欺瞞的な意味はないことは注意すべきである。
(ア) 一八世紀以来、「言説とその領域というレベルにおいては(中略)性についての言説は(中略)増殖することをやめなかった」(26)とフーコーは言う。しかしこれは性に対する「違反的な言説」が増えたと言うことではない。違反的な言説とは、上品さの規則の「反作用」にすぎず、重要ではない。それはフーコーの言う「言説」ではないのだ。
(イ) 言いかえるならばフーコーは、性に対する言説を「合法」「非合法」、「規則」「違反」という対立とは別に考えている。むしろ彼にとって重要なのは「異常」「正常」の区別である。
(ウ) 「本質的なことは、権力の領野(le champ d’exercice)の場における、性についての言説の増大である」(26)とフーコーは言う。この一節は重要である。性についての言説とは、権力そのものであると言ったらいいすぎならば、「権力の領野」に内在しており、権力が行使されればされることと、性に対する「肯定的〔違反的ではない〕」言説の増大はほぼひとつのことなのだ。(cf. p. 43)
2. 言説のうながしを支えるのがさまざまな制度(システム、施設、そこで動く人々、使われる道具などすべての総体)である。ここではトリエント公会議以降の、カトリックの告解の秘蹟という制度が例に挙げられている。その詳細は省略するとして、
(ア) 行為そのものの違反性が問題なのではなく、「肉欲(chair)」についての「ほのめかし」が重要。それは行為そのものより、「夢想を横切る影」「追い払おうとしてもなかなか追い払えないイメージ」「身体の仕組みと精神の迎合との間の捨てきれない共犯関係」など、「欲望の惑乱(trouble)」という「知覚したり言葉に表したりしたりするのが困難な領域」へと関心が移っていく(29)。要するに精神と身体の「接合する線」にある「想像的なもの」に権力は介入するのだ。
(イ) こうして性は「(排除されるのではなく)引き受けられ」、権力に担われ、「言説によって(追い詰められた獲物のように)駆り立てられる。
㈰ こうして言説は告白によって「性の真理」を語らせる。ここで注目したいのはフーコーによる二つの真理の区別である。フーコーはあるところで、二つの真理を区別する。
1. 認識論的な知の真理、命題的な真理、科学的な実践と結びついた真理
2. 試練としての真理、予言者、占い師、盲人、狂人によって担われる真理、出来事や実践としての真理、引き起こされたり、追跡されたりする真理。科学的にではなく、儀式や策略による真理。認識ではなく、「ショック」や「狩猟」の関係、「危険で、可逆的で、好戦的」権力関係(cf. 『後期フーコー』p. 114)。
→ おなじような意味で、「告白」も「かけひき」(28):こころとからだの間に真理が宿っており、それをすべて語ることで、こころを導いていくこと。これこそが「性の言説化」(29)
3. 文学作品の役割
(ア) サド、『我が秘密の生涯』(作者不詳)
「私は思い出せるかぎりにおいて、事実を、事実が起きたとおりに語っている」
(イ) ポイント:上品な時代からの「脱獄」(31)ではなく、「魂の惑乱」にかかわる「性」をほのめかすことをすべて語ること。権力の「うながし」に従っている。
(ウ) 「自分の身体の中に誘惑の噛み跡と誘惑に抵抗する愛とをともに感じるという至福に満ちた苦悩の肉体的な作用」(32)
(エ) こうして西欧は「性に言説を繋ぐ」装置を作り上げてきた。それは禁止でも検閲でもなく、「性についての言説を生産する仕組み」である(32)
4. 権力のメカニズム:こうしたキリスト教的な実践や文学が、社会全体に広がっていく仕組みはどのようなものか?
(ア) 政治的・経済的・技術的な促しとして「公共の利益」になると考えられる。→ 道徳の問題ではなく、「合理性」(33)の問題。
(イ) 性は「非難したり許したりするもの」から「統御したり、有用性のシステムに挿入したり、万人の最大の利益のために調整し、最適の条件で機能させるべきもの」となる。
(ウ) administration.公共的な管理
(エ) police:「集団的・個人的な力を秩序だって増幅する」「国家の内在的な力を増大させる」「公共の福祉」に役立てる。=性のポリス(「性を有用かつ公の言説を介して調整する」こと(35)