廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

ドゥルーズにおけるヴァーチャリティと木村敏におけるヴァーチャリティ:リズム論へ向けて

前回の抜粋
1 「生きている」アクチュアリティ
「アクチュアリティ」:「非・不連続性」
○ なぜ「連続性」と言わず「非・不連続性」と呼ぶか(57-58)
→ ドゥルーズはこのようなものを「非人称的」で「問題的」(問いを投げかける)で「特異性の生産」を孕んだ「領野」と呼ぶ。

2 環境との「相即」
問い;環境との「接触」はどこで行われているのか
・境界は、心身統合体の「動き」であるので、「どこ」と言うことはできないが、身体と結び付いているかぎりにおいて、まったく物質以外の「もの」でもない。意識の動きそのものー物質の肌理、ヴォリューム感、現前感

音楽の例(66)
音同士の関係、ひとつの音と別の音すべてとの関係
問い
・生命という「コト」と、いまここに生きているアクチュアルで有限な「もの」はどう関係しているか

参考1:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(1968)
背景になる問い:
1) 生物のポテンシャルを厳密に語ろうとするとどのようになるか。ポテンシャルなものを実現するプロセスをどのように具体的にイメージするか
2) ベルクソンの「可能的なものとは、回顧的錯覚であり、新しいものの創造性を隠蔽してしまう」(「思想と動くもの」所収)
virtuelとpossible
・possibleはréalisationする
・virtuelはactualisationする
・virtuelは実在性をも持っている。
Possibleは概念の同一性と関係
Virtuelは理念idée/ideaの「多様性(multiplicité)」に関係。「同一なもの」を根柢から排除。
virtuelなものは、後から生み出されたもので、realitéとの「類似」により作られた。
Virtuelは、「差異」「発散」「différentiation」よってactualiserする。「真の創造」。
解かれるべき問題としての実在性。
ベルクソンの記憶論(『物質と記憶』)では過去の巨大な記憶的潜在体と関係。
卵の発生過程の折り畳み、生命のリズム→ 分割してしまうと変質してしまうけれども、たえず更新していくものでもある。→ 「個体はヴァーチュアルなものに身をひたしている」

木村:個体的でも集合的でもある「主体」が「クリネイン」において、環境から問いを投げかけられて「応答」する「行為」。みずからの「身体図式」の組み替え(内部と外部の関係の差異化と再統合)→ それが「生命のリズム?」

参考2:リズムと拍子(山下尚一『ジゼール・ブルレ研究——音楽的時間、身体、リズム』(ナカニシヤ出版)
https://kdb.tsukuba.ac.jp/syllabi/2016/AC32801/jpn/0/

リズムこそが時間を組織化している(超越論的リズム)
・拍子とリズム
拍子の規則性 と リズムの不規則性
リズムは自由な更新、拍子は反復 → この二つは不可分
枠組としての拍子。リズムはこの枠組を壊しながら作り直す。

Cf. クラーゲス『リズムの本質』(みすず書房
クラーゲスの「生気論」。
・リズムとは自然がもつ生命の現れであって、波の運動や植物の多様な形状に見られる。分割できない。生物特有なもの
・拍子とは精神の作用(時計のチクタク)。人間に特有な「分割」「境界決定」

ブルレ:両者は不可分。精神の作用が時間を発生させる。
Cf. テンポ・ルバートガムラン。テンポの柔軟な伸縮

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木村敏においては。まずはアクチュアリティの「現在性」が議論の柱となる。ヴァーチャリティは、アクチュアリティという「根源的創設」の沈殿と考えられているように思われる。アクチュアリティはヴァーチュアリティのいわば氷山の一角のようなものとしてある。アクチュアリティの経験があってはじめて、ヴァーチャリティがその「垂直の深さ」として見出される。
それに対してドゥルーズは、ヴァーチャリティのリアリティはいわば自明なものと考えているようにもみえる。