廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

2015-01-01から1年間の記事一覧

先端文化学概論:4月27日:ダンスの身体

○ウィリアム・フォーサイスの身体 • ウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)(1949-) • アメリカ出身のコンテンポラリーダンスのダンサー、振り付け師 • クラシック・バレエの動きを「もとに」それをひとつひとつ「意志」から解放し、分割し、解体して…

先端文化学研究V:メルロ=ポンティ『知覚の現象学』の幻影肢論(2)

幻影肢という「現象」(2) 認知行動療法補足: 1) 触覚はたんなる外的刺激の直接的な受容、反射ではない。 2) ざらざら、すべすべという感覚は、手の運動のプロセス全体で「能動的」に感受される。 3) この感覚が取り戻される「瞬間」、それは自己の…

4月27日:幻影肢論(2)

幻影肢という「現象」(2) 認知行動療法補足: 1) 触覚はたんなる外的刺激の直接的な受容、反射ではない。 2) ざらざら、すべすべという感覚は、手の運動のプロセス全体で「能動的」に感受される。 3) この感覚が取り戻される「瞬間」、それは自己の…

先端文化学研究V 4月20日:幻影肢という現象

幻影肢という「現象」 ・客観的身体とは「ずれた」もう一つの身体。この身体は「生理学的」にも「心理的」にも完全には説明できません。メルロ=ポンティは、この現象を「実存の両義性」と呼び、それを積極的に説明しようとしています。 ・ 問題1:「実存」…

先端文化概論 夢見る身体 4月13日改訂版

先端文化学概論I:「夢見る身体」 イントロダクション: 現代の身体はさまざまな社会的意味付けに取り囲まれている。私たちは身体をつねに意識している。いや意識させられている。生誕から死まで、私たちはさまざまな「文化的制度」に取り囲まれ、そこから脱…

先端文化学概論(4月13日)「感覚を分かち=合う」こと。

先端文化学概論I:「感覚を分かち=合うこと」 考えたいこと:感覚を人と「分かち合う」とはどういうことだろうか。とりわけ、喜び、感動、不安、痛みなどを、他者と「分かち=合う」ことはどのようなときに可能なのだろうか。たとえば芸術とはそのような「…

先端文化学研究5 4月13日資料 身体とことば 『知覚の現象学』を読む

からだとことば──メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読む ○ モーリス・メルロ=ポンティ(1908-61)とは サルトルとともに、第二次世界大戦後活動を始めた哲学者。当時は「実存主義」者として知られたが、現在は彼の「現象学」(ドイツの哲学者フッサールが20…

先端文化学演習VI 2月1日 まとめ

レポート: 期限:2月10日17時(学務前レポートボックス「先端文化学演習VI」 分量 基本的に自由だが、先週の「見本」などを参考に、2000字程度。 ・ 発表者は、自分のレジュメをまとめ直し、それにさらなるコメントを付けたものでもよい。 ・ コメ…

先端文化学演習VI 1月26日 他者たちとの共存

『知覚の哲学』第五章「外部から見た人間」においてメルロ=ポンティは、彼の知覚の哲学の立場から、他者がどのように現れてくるか、そして「人類」という他者との「共存」ないしは「共存在(Mit-Sein)」がどのように可能かを模索している。 講演の前半で彼…

先端文化学研究 1月20日 ストア派、パレーシア、ディオゲネス

ストア派の生(セネカ、マルクス・アウレリウス、エピクテートス)(『主体の解釈学』) ・アスケーシスが禁欲ではなく、ポジティヴな訓練であったこと。 ・思考=行動がひとつのもの ・ それにより、主体はみずからを「ロゴスの主体」に変容させ、不意の出…

先端文化学研究演習 1月20日 他者論の迷宮

他者論の迷宮: ・私たちにとって他者の存在は「自明」、社会学者は人間が社会的に規定されていることを「前提」 ・現象学は、他者の存在を一度「括弧に入れ」、他者としての他者の「意味」が自己にどのように現れてくるかを考察する。 ・他者論の難しさ。 …

先端文化研究:自由の実践としての自己への配慮(1月14日)

「自由の実践としての自己の配慮」(『ミシェル・フーコー思考集成X』。『フーコー・コレクション6』所収)問題点: 1) 主体と真理の関係の問題とは何か? ・ 「人間的主体はどのように真理のゲームに入り込むか」。 ・ 真理のゲーム:科学、コントロール…

先端文化研究 1月8日補足

フーコーの「抵抗」概念に意味があるとしたら──それほど大きな意味はないと思うが──、「抵抗が先にある」というテーゼである。これは自己の自己に対する抵抗であり、いかなる超越的なものも前提しない自己抵抗である。とはいえ、この自己抵抗が真理の諸体制…

先端文化学研究:1月8日:主体と真理

フーコーは1970年代終わりから、『監獄の誕生』に代表される、権力と知の関係という問題を捨て、「主体」はなぜ「自己の真理」に縛られていくのか、という問題を立てる。このことは何を意味するのか。 参考文献: ・ 『自己のテクノロジー』 ・ 『主体の解釈…